江戸神田に生まれる[2][注 1]。
明治9年(1876年)東京府病院に設置された産婆学院の第1回生として入学。卒業後、同病院附属貧民施療院の産室取締となる。明治12年(1879年)4月には芝区濱町に開業し、里仁会を設立して貧民の治療に尽くす[3]。
明治23年(1890年)5月には、東京産婆会の会長に就任し[4]、明治36年(1903年)11月芝産婆会を創立して会長に就任する[3]。
宮家にも仕え[2]、伏見宮博厚王、伏見宮博恭王、伏見宮博忠王の助産にあたった。また、伊藤博精、佐佐木高志、兒玉秀雄、大木遠吉の助産も行った[3]。
明治41年(1908年)頃には、新橋72番の2桁の電話番号を持って活躍していた[1]。
明治44年(1911年)12月19日に芝区田町にて死去[3]。