山田斂
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越前国坂井郡一本田村(福井県坂井郡丸岡町を経て現坂井市)で、豪農・山田穣の長男として生まれた[2][4]。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)卒業[1][3]。父の死去に伴い1892年(明治25年)家督を相続した[2]。
1892年、高椋村会議員に選出され、坂井郡会議員も務めた[3]。1897年(明治30年)に福井県会議員に就任したが1期で引退した[4]。1918年(大正7年)9月29日[5]、貴族院多額納税者議員に就任し[3]、農政懇談会幹事として議員立法の農会法(大正11年4月12日法律第40号)の成立に尽力した[4]。在任中は研究会に所属し、1925年(大正14年)9月28日まで務めた[3]。
1895年(明治28年)坂井郡農会が設立され、同会長に就任し終生在任した[1]。1909年(明治42年)興農信用組合を設立し、小作人に営農資金の貸付を行った[4]。福井県農会副会長、同会長、帝国農会議員などを務め、小作制度、農業金融などの課題の解決に尽力した[1][2][4]。
著作
- 『興農管見』山田斂、1901年。
- 『晩成園随筆』帝国農会、1942年。
- 編『興農会事業一班』山田斂、1913年。
