これについても軍記物で諸説有るが特に多く見られる天正7年説は『陰徳太平記』という軍記物が元になっている。この書の巻61に「備中国四畝忍山城」という章が有りそこで忍山合戦を天正7年の事としているが、毛利方の記録(『萩藩閥閲録』など)に拠ると「四畝」という地を巡る戦いが起きたのが天正7年であり、忍山の合戦は天正9年となっている。また、毛利方に遺る文書には毛利輝元や吉川元春のこれら一連の戦に対する家臣への感状もある為、信憑性の面では軍記物の記述より遥かに勝る。
『陰徳太平記』の「備中国四畝忍山城」というのは四畝近辺の戦いと後に起きた忍山合戦とを混同した事によって生じた誤認と見るのが現在では定説である。