Wikiwand AI

岡本久包

From Wikipedia, the free encyclopedia

岡本 久包(おかもと ひさかね)は、江戸時代の旗本。

生誕 貞享2年(1685年)
別名 弥十郎
概要 凡例岡本久包, 時代 ...
 
岡本久包
時代 江戸時代
生誕 貞享2年(1685年)
死没 延享3年8月4日(1746年9月18日)
別名 弥十郎
戒名 義的
墓所 浅草東國寺
氏族 岡本氏
父母 父:桑嶋忠久 母:桑田佐左衛門娘    
兄弟 桑嶋忠陳、桑嶋忠純、久包、児玉氏妻、六郎左衛門、忠査
妻 近藤茂大夫娘
子 真野貞國室、山本正職室、久暢、
横尾宅平室(久暢養女)
テンプレートを表示
閉じる

略歴

江戸城の馬医桑嶋忠久の三男として生まれる。

正徳元年(1711年)12月18日に徳川家宣に仕え、表右筆となり禄米百五十俵を得て、祖先の姓である岡本氏を名乗って独立する。その後久包は、順調に出世していく。正徳5年(1715年)4月30日には奥右筆となり、同年12月18日に禄米五十俵を加えられて禄米二百俵となった。さらには、享保16年(1731年)4月24日に西の丸に勤仕し、享保19年(1734年)4月18日には奥右筆の組頭になり、久包は幕府内の信頼と地位を高めていった。

しかし、奥右筆組頭となった年の10月26日、田安館の火番の人数が足らなかったことから、その人員補充をすることになったが、すでに1人登用が決まっていたにもかかわらず、久包は、誤ってもう1人採用してしまい、重複させてしまう手違いを犯してしまう。これを咎められ、久包は拝謁停止の処分を受ける。

ただ、謹慎は1ヵ月程度で解かれて同年中の12月6日に赦免となり、さらに12月18日には布衣(ほい)の着用を許され、旗本格に列せられる。布衣の着用は、官位で六位の者と同格とされる名誉であった。寛保2年(1742年)7月9日、御納戸役(おなんどやく)[1]の頭となる。

延享3年(1746年)8月4日没。享年62。亡骸は浅草東國寺に葬られ、以降、久包の子孫の代々の菩提寺となった。

脚注

参考文献

出典

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks