岡村宣温 From Wikipedia, the free encyclopedia 岡村 宣温(おかむら のぶあつ、1835年 – 明治45年(1912年)1月15日)は、明治時代の日本の大日本帝国陸軍官吏・軍人。陸軍主計として会計・監督畑を歩み、日清戦争に出征した。最終官等は陸軍二等監督(中佐相当官)、位階は従五位、勲等は勲三等である[1]。 岡村は信濃国東筑摩郡松本南深志町(現長野県松本市)の士族の出身である[1][2]。明治7年(1874年)頃、中山信吉・中村宗則・浅田恭郷らとともに陸軍軍吏に任じられ、正七位を叙せられた[1]。 同年、陸軍大尉として佐賀の乱に出征している[3]。明治8年(1875年)には司契副に転じ、仙台鎮台司契課長を兼ね、さらに工兵第二方面本署監督課会計官を務めた[1]。 明治10年(1877年)には二等司契に昇進し従六位となり[1]、その後二等副監督に転じた。明治14年(1881年)頃には勲五等に叙せられ、仙台鎮台会計部長に就任している[1][2]。 以後、陸軍省会計局出仕、陸軍士官学校、工兵第一方面病馬廠などを歴任し[1]、明治17年(1884年)4月7日には会計局糧食課長に転じ、翌明治18年(1885年)には同庶務課長となった[1]。 明治19年(1886年)11月30日、勲四等に叙せられ旭日小綬章を受章し[1]、明治20年(1887年)11月1日には正六位に進んだ[1]。明治21年(1888年)には三等監督として第六師団監督部陣営課長に就任し[1]、明治25年(1892年)6月1日、二等監督に進んで後備役に編入された[1]。 明治27年(1894年)、第三師団監督部長として日清戦争に出征し、軍需・会計面で功績を挙げた[1]。戦後も官歴を重ね、晩年には従五位に叙せられている[1]。 明治45年(1912年)1月15日死去。墓所は青山霊園に所在する[1]。 また明治22年(1889年)に旧松本藩主を中心に結成された旧藩士の親睦団体「信松会」に、辻新次らとともに名を連ねている[4]。 脚注 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 東京美術 1988, p. 1243. 1 2 仙台人名大辞書刊行会 1933, p. 166. ↑ 陸軍省 1874, p. 29. ↑ 信州の啓蒙家市川量造とその周辺刊行会 1976, p. 594. 参考文献 『明治過去帳 物故人名辞典 新訂』東京美術、1988年。 『佐賀征討記』陸軍省、1874年。 『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。 『信州の啓蒙家市川量造とその周辺』信州の啓蒙家市川量造とその周辺刊行会、1976年。 Related Articles