岡田怡川
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生い立ち
明治27年(1894)7月23日群馬郡大類村中大類(高崎市中大類)の農業岡田保次郎・キン夫妻の長男として誕生。この年は日清戦争があった年で、日本の近代化がいよいよ進もうという時代であった。父は区長、学務委員を務めた人で、地域の信望も厚かった。一方我が子に対しては厳しくしつけ、これからの時代を背負って立つ人物へと、長男への期待は大きかった。父の薫陶を受けた岡田は教育者として大成し、群馬の社会教育の発展に尽くした[1]。
高等学校教諭時代
高小卒後、小学校教員、中等学校教員(旧制)、高等学校教員(旧制)の各資格をいずれも検定試験で取得した努力家であり、教員としての志が高かった。小学校教員の後、県立高崎高等女学校(現高崎女子高校)に赴任する。曲がったことの嫌いな厳格な人で、高女の生徒は、岡田の足音を聞いただけで静かになったという[1]。
「人生を価値の創造である」と考え、女性の価値創造の領域として次の三方面を上げて、母性の尊厳と女性の社会的進出を支持した。1.女性のみにできる出産育児の方面、母は自然の教育者なり。2.女性の方がより優れている家事一般、ただし男性でもそれに長じた者は此の任に当たるのが人生をより良く送ることになる。3.「男女性何れにても可なる方面で科学者・教員・事務等をかぞえたい。殊に小学校教員・高等女学校教員は最適である。最近女事務員が増したとして社会問題として重用視する者がいるのは可笑千万である。」[2]
大正13年4月に市立図書館で開催されたカント生誕二百年祭で、主催の高崎教育研究会の依頼で講演した。愛煙家ではあったが、酒をたしなまず、時間厳守の規則正しい生活を信条としていた怡三雄はカントを語るにふさわしかった[3]。
『八大教育批判』刊行から
校内の活躍と平行して東京小石川の大日本学術協会発行の雑誌に教育思潮の紹介や批評を発表していた。その実績が認められて大正12年5月、岡田怡川の筆名で同協会主幹尼子止水らと共編で『八大教育批判』を刊行した。その中で岡田は、当時次々に発表された教育論を解説し、それがいずれも欧米の哲学心理学に依拠して一定の方法論を提起している点は評価できるが、直ちに教育の現場に導入するには具体性と普遍性に欠けると指摘した。それが全国に反響をよび爆発的に売れて、全国を講演して回り、一気に著名な存在となった。「この年は私の運命を変えた年である。八大教育批判の発行によって一介の地方の教師であった教育者が日本の教育評論家に祭り上げられた年である。」(自筆メモより)[3]
月刊雑誌「丙寅教育倶楽部」発行から大学教授へ
大正15年、高崎市の自宅に教育学術協会を設立し、自ら主幹となって月刊雑誌「丙寅教育倶楽部」の発行を開始。「永い間編輯から発行まで一切自分の理想によって一貫した雑誌を経営したいという要望を抱いていた。今年は丙寅だ。丙は若くして、寅はただしい、という多望と真理の象徴として意義のある年に思い切ってスタートし、教育というルツボによって一切の文化事象間の反目・抗争・排除の融合に努めんとして茲に創刊を見たことは、直接間接『万人は教育せられ教育しつつあるものだ』という見解からして、万人のお力添えによるものと感謝する他ない。」(創刊号)と希望に満ちた32歳だった。機関誌の投稿には、谷本富(文学博士)、辻幸三郎(広島高師)、小林修平(東京高師)、原田実(早大)、蘆田正喜(立教大)、永井米吉(明星学園)、入沢宗寿(東大)、島崎藤村、土屋文明らが名を連ねていた。これを見ても岡田の著名度と人脈の広さが察せられる。しかし、本部を高崎に置いた事からくる困難は最初からつきまとった。彼自身の少年期からの独学経験を活かして、次々に文検受験用参考書を出版し、その収入をつぎ込み、家族ぐるみで努力したが、遂に第5号を最後に雑誌廃刊のやむなきに至り、大正15年高崎を後にし、文部省社会教育局の編輯事務所嘱託、日本体育会設立の体操学校(現日本体育大学)教授、日本大学芸術学部講師となる[3]。
群馬県の社会教育への貢献
終戦により、再び郷里に帰り、郷土の復興と発展に教育の面から貢献するようになる。終戦時は51歳で、教育者として円熟していた時であった。戦後は、六三三制の教育制度を始め、新しい制度が敷かれた。教育に限らず、様々な改革が進められ、あらゆる面で新しい日本が築かれようとしていた。
昭和24年に社会教育法が制定されたが、その中で設置が規定された公民館は地域の住民の実生活に即してさまざまな事業を行い、生活向上にとってのいわばシンボルとなるものであった。岡田は公民館づくりに積極的に貢献し、住民の生活向上はもちろん自治意識の高揚においても大いに寄与するところとなった。また、文化財調査など県立博物館の仕事に発足して以来関わり、博物館活動の充実に尽力した。公民館や博物館の仕事は県では初めて行われるものであった。退職後は、井上工業(株)の美術館設立のための準備にあたった。群馬県社会教育主事やPTAにおいても市立大類小・大類中PTA会長、高崎市立小学校PTA協議会副会長と要職を務め、広い見識で活動を充実させた。
昭和59年89歳で他界する。晩年は、本の執筆に打ち込んでいたが、未完成のまま。岡田を支えたのは、島原出身で東京の文化服装学院の教師をしていたタチエ夫人。「神仏を信仰し、正理を実践し、善に徹し美の世界へのあこがれをもつ、これが一家の生活信条である。」故人の遺訓である[1]。