岡西惟中
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因幡の鳥取に生まれる[1]。幼時から書道を学び、儒学を菊池東勻・檜川半融軒、漢詩を南源禅師、和歌を宮木孝庸・烏丸資慶・烏丸光雄、連歌を里村昌益に学ぶ[1]。14歳頃から俳諧に親しみ、万治1年刊『鸚鵡集』に入集[1]。その後、備中岡山に移り、書道学問での仕官を望むが失敗[1]。1669年(寛文9年)、西山宗因の門人となったとされ、談林派の論客として活躍した[1]。和漢の知識を駆使して、『しぶ団返答』『俳諧蒙求』『俳諧三部抄』『俳諧或問』『俳諧破邪顕正返答』『俳諧破邪顕正評判之返答』などの論難書を著した[1]。
談林派が全盛期だった1678年(延宝6年)に活動の場を大坂(現在の大阪市)に移し[1]、井原西鶴一門と共に宗因一門の双璧を成し遂げた。1682年(天和2年)に宗因が死去した後は俳諧の世界から離れ、古典講釈・漢詩・連歌に精力を傾けた[1]。