岸柳島
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『岸柳島[1][2][3]』(がんりゅうじま)は古典落語の演目。『巌柳島』[4]、『巌流島』とも表記される[5]。『岸柳島』という表記について、『志ん生滑稽ばなし』(立風書房)は、三遊亭圓朝が「岸の柳と書いたほうが、落語らしくイキでいい」とそちらを推したという説を記している[1]。一方、6代目三遊亭圓生は「岸柳の方がやさしいから使うようになったんでしょうねェ」という感想を述べている[3]。
上方落語の演目『桑名舟煙管のやり(遣)とり』(または『桑名舟七里の渡し』)を明治時代に江戸落語に移したものとされ[4][5]、『桑名舟』という別題もある[6]。宇井無愁は上方の演題を『桑名船』とする[7]。上方落語では七里の渡しが舞台となっており、演題もそこに由来する[5]。
渡し船の上で煙管を吸っていた若侍が船縁で火玉を払うと雁首が水中に落下し、それを見た屑屋が吸い口だけでも自分にと持ちかけたところ若侍が激高、手打ちにすると息巻く。同乗していた老武士が自分が向こう岸で相手をすると名乗り出て、岸に近づいたときに機略で若侍を船から遠ざけるという内容。
江戸時代初期の寛文7年(1667年)に出た『和漢理屈物語』第3巻「佐久間一無兵法の事」に類話(筑前国の佐々木一無という兵法者が近江国の渡船で、兵法自慢をする侍と口論になり、近くの島に上陸して勝負すると持ちかけて相手だけ上陸させる内容)が見え、また講談では佐々木巌流を主人公として同様の話があった[4]。武藤禎夫は、これらの先行する話に「滑稽味を加え、サゲをつけて落語に仕立てたものらしい」と述べ、さらにこうした話の源流に中国の『呂氏春秋』の一編「舟を刻んで剣を求む」[注釈 1]があるという推測を記している[4]。江戸小咄本では、安永2年(1773年)に出版された笑話本『坐笑産(ざしょうみやげ)』の一遍である「むだ」には、『呂氏春秋』から派生した、演目前半と類似した内容(煙管を船上から落として、船頭から「どこらへ落ちました」と言われて、唾をつけた指で船縁に印をつける)がある[4]。前田勇や宇井無愁は、上方の演目は塚原卜伝の「無手勝流」のエピソードを扱った講釈が由来としている[5][7]。
浅草の厩橋にある舟着場。一艘の渡し舟が出る寸前に無理に乗り込んだ侍は、周囲の客に傲慢な態度を取る。
しばらくのち、侍が吸殻を落とそうと舟べりで煙管を叩くと、雁首が取れて川の中に落ちる。侍は船を止めろと船頭に命じるが、船頭は深い場所なので取ることはできないと答える。するとやり取りを聞いた客の屑屋が、「不要になった吸い口を買い上げたいと」持ちかけた。侍は「落とした雁首と、貴様の雁首を引き換えにするから、その首をこっちへ出せ」と逆上する。そこへ、中間(ちゅうげん)に槍を持たせた年老いた侍が仲裁に乗り出した。
老武士は、町人を斬るのでは武士の恥ではないかと諭すが、侍は聞く耳を持たず、逆に老武士に決闘を申し出る。断っていた老武士も執拗な要求に折れ、岸に着いたら相手をすると返答した。舟が着岸するとまず侍が飛び降りた。ところが老武士は舟を下りず、侍が飛び降りた反動で舟が動き出すのを見計らって槍の石突きで岸壁を押し、舟は離岸する。怒った侍は、やがて着物を脱いでふんどし一丁になると、小刀(しょうとう)をくわえて川の中に飛び込んだ。舟の近くで顔を出した侍に老武士が「わしに謀(たばか)られたを恨み、舟を沈めに参ったか? 」と訊ねると、侍は「なぁに、さっきの雁首を探しに来た」。