峰翁祖一
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正安2年(1300年)、下野国那須雲巌寺の高峰顕日(後嵯峨天皇の皇子)と南浦紹明の両者に、後に大徳寺を開山した宗峰妙超と伴に参禅する。そして当時筑前国大宰府にあった崇福寺に南浦紹明(大応国師)を訪ね、印加を受ける。南浦紹明の高足で宗峰妙超の同門であるが宗峰からも学んだ。
嘉元2年(1304年)、南浦紹明に随って上京。その後同門の宗峰が紫野に大徳寺を創立したので、訪ねて碧巌録を研修した。
延慶元年(1308年)、南浦紹明が亡くなり崇福寺の三世となる。
建武2年(1335年)、美濃国遠山荘地頭の遠山氏が大圓寺(現・岐阜県恵那市岩村町)を開創して迎えられ初祖となる。峰翁はこの山間幽谷の大圓寺で修行三昧に耽った。
暦応元年(1338年)、美濃国武儀郡富野村(現・岐阜県関市)に吉祥寺を開創。さらに同年に美濃国恵那郡阿木村に大禅寺(現存せず)を開創。
暦応2年(1339年)、三河国渥美郡の真言宗の太平寺を臨済宗に改宗し梵鐘を新築。
興国元年(1340年)、月菴宗光は峰翁に入門して指導を受けた。その他大蟲宗岑、心王性守、玉林宗璨等は、この頃集まった門弟である。
貞和年間(1345年 - 1350年)には伊予国の風早(現在の愛媛県松山市)に大通寺を開創。
延文元年(1356年)、法弟の滅宗宗光に請われて尾張の妙興寺に移り住山する。
延文2年3月(1357年)、大圓寺にて没する。84歳。
崇福寺文書
崇福寺は横岳山ともいい、九州大宰府にあった臨済禅の道場で、大応国師はここに於いて多くの門弟を養成した。峰翁祖一はこゝで入門してその法嗣となったが、師の没後同寺に出世した。其後峰翁の門下もこれに出世した。
- 勅賜正宗大暁禅師住横岳山万年崇福寺語録 門人宗雲等編
峰翁禅師行実 時宗胞弟廿四才出家、顕日高峰につく。後大応に学ぶ。晩美濃之明覚山大円寺に入る。法席丕盛。建武丁丑秋九月廿一日忽有微恙、入寂、老衲九十八。
海蔵寺文書
崇福三世峰翁祖一禅師 駿州の産、鎌倉執権北条時宗の母弟なり。時宗の実母最明寺時頼の妾にして毛利蔵人の娘なりしが、時宗の嫡母北条氏(北条重時の娘)に養われて家督。時宗の実母毛利氏は後北条義宗に嫁し数子を挙ぐ。禅師は時宗と異父兄弟なり。廿四才出家。大応国師に横岳にて勤業。遠賀郡内浦空徳谷を修禅場として結構し、一寺を開く。之を海蔵寺と称す。横岳二世絶崖転住後、禅師は迎えられて崇福に入院第三世となる。山内に一刹を開基して大聖庵といふ。後大圓寺に転住。 延元二年丁丑九月廿一日大圓寺にて遷化春秋九八(海蔵寺旧記)
妙心寺記録
峰翁祖一禅師は南浦大応国師の法嗣であって博多崇福寺の三世、筑前海蔵寺の開山、正宗大暁禅師と話す。海蔵寺は福岡県遠賀郡岡垣村宇内浦にある。 峰翁禅師はこれより先勢州桑名城下後藤不干斎の少林寺を創立し、其の上棟の日に於て梁南禅棟禅師を得度す。梁南禅棟の名は之に因んだのである。同師は尾州総見寺の二世である。(妙心寺派 教務本所) (大正六年に大圓寺最後の住職希菴玄密和尚の建碑に際し、恵那郡史の編集者が妙心寺へ問合せた時の回答の抜卒)