島田宮成 From Wikipedia, the free encyclopedia 島田 宮成(しまだ の みやなり、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は臣。官位は従五位下・周防守。 島田臣は『新撰姓氏録』「右京皇別」に多朝臣と同祖で、神八井耳命の後なりと記されている。続けて、成務天皇の時代に、尾張国の島田の上下二県に悪神がいて、島田臣の先祖が派遣されて平服させ、島田臣の号を得た、と述べられている。 この「島田」は尾張国海部郡島田郷(現在の愛知県あま市七宝町・美和町付近の地名によるものだとされている[1][2]。 経歴 桓武朝の延暦2年(783年)正月、天皇の詔により、筑紫広島・津真道らとともに、正六位上から外従五位下に昇叙している。彼らが早朝から深夜まで公事に励み、つつしみ勤めておこたることがなかった、という理由からである。同年11月12日、吉弥侯横刀の後任の上野介に任命される[3]。 同4年(785年)10月、右京亮になり[4]、翌5年(786年)9月29日、畿内の班田使が派遣された際には、大和国の右次官として職務に従事した。この時の右長官は佐伯久良麻呂。同7年(788年)3月、従五位下に叙爵され、同時に石川宿奈麻呂の後任の周防守に就任した[5]。 官歴 『続日本紀』による。 時期不詳:正六位上。 延暦2年(783年)正月20日:外従五位下。11月12日:上野介 延暦4年(785年)10月12日:右京亮 延暦5年(786年)9月29日:大和国班田右次官 延暦7年(788年)3月21日:従五位下・周防守 脚注 [脚注の使い方] ↑ 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇二 ↑ 岩波書店『続日本紀』5 補注37-二六 ↑ 『続日本紀』巻第三十七 ↑ 『続日本紀』巻第三十八 ↑ 『続日本紀』巻第三十九 参考文献 『続日本紀』5 新日本古典文学大系16 岩波書店、1998年 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年 『日本古代氏族人名辞典』p343、坂本太郎・平野邦雄監修、吉川弘文館、1990年 Related Articles