崔秉烈
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1938年9月、慶尚南道山清郡に生まれる。釜山高等学校(1957年卒)、ソウル大学校行政学科(1964年卒)、南カリフォルニア大学新聞大学院新聞学修士(1973年)。
朝鮮日報編集局長を経て、1988年に大統領秘書室政務首席秘書官、同年文化公報部長官( - 1989年)、1990年に初代国政広報処長官に就任、8代労働部長官(1990年 - 1992年)。1992年3月の総選挙で民主自由党全国区から出馬し当選、大統領職引継委員会委員を務めた。1994年11月の聖水大橋崩落事故の発生に伴い民心を収拾するために李元鐘の後任として慶尚北道知事だった禹命奎が市長に任命されたが、市建設局道路保守課長として聖水大橋建設に関わってたことが問題視されて批判が噴出。たった11日で禹を市長職から解任し第29代ソウル特別市長[4][5]として官選最後の市長職に就いた。退任の1日前に三豊百貨店崩壊事故が発生したため、後任の趙淳との市長職の引継ぎは三豊百貨店の崩壊現場で行われた[6][7]。
その後、第15代(新韓国党)、第16代(ハンナラ党)と国会議員を歴任し、2003年6月に韓国政党史上初めて23万代議員の直接投票を通じて当時の最大野党であるハンナラ党の代表に当選した。盧武鉉政府を相手に強硬路線を続けた崔は、2003年11月、当時の大統領の盧武鉉が側近不正疑惑関連の特検法に拒否権を行使すると、断食闘争に出た。10日間の断食の末、結局国会が特検法を再議決する成果を挙げた。しかし2004年3月、「チャッテギ事件」と呼ばれるハンナラ党の大統領選挙不法資金事件に加え、盧武鉉大統領の弾劾訴追案がハンナラ党などの賛成多数で可決したことに対する国民の反発がきっかけで党支持率が急落した責任を取り、代表の座を退いた[5]。そして、第17代総選挙ではハンナラ党の公薦が得られず、脱落した[8]。
晩年は朴槿恵の元老諮問グループである「七人会」のメンバーとして活動した[4][5]。2022年12月2日に死去。84歳没[2]。
