嵯峨の屋おむろ
日本の小説家
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人物
後の東京市日本橋区(現・東京都中央区)日本橋箱崎にあった下総関宿藩邸生まれ[1]。父親が脱藩し彰義隊(卍隊)に加わったため、貧苦の生活を送る[1]。
1876年、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科の給費生となる[1]。二葉亭四迷とは同級生だった[1]。
卒業後統計院に勤めるが官制に伴って失職[1]、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる[1]。
1887年、「浮世人情守銭奴之肚」(うきよにんじょうしまりみせのはら)を刊行し、坪内逍遙から「嵯峨屋のお室」の筆名を与えられる[1]。筆名は「嵯峨や御室の花ざかり」という一節(常磐津の「将門」(忍夜恋曲者)による[要出典]。
「初恋」「くされ玉子」「野末の菊」(いずれも1889年発表[1])などの浪漫的作品や「夢現境」(1891年発表)など厭世的無常観を突き詰めた小説のほか、ロシア文学の翻訳を発表し紹介した。小説論に「小説家の責任」(1889年)がある。詩人としては『抒情詩』(1897)に「いつ真て草」ほか9編を発表。一時は尾崎紅葉と並び称された[要出典]。
1906年、陸軍士官学校ロシア語教官を務める[1][注釈 1]。1910年以降は創作活動が止まる[1]。1947年、千葉の牛久で没した[1]。墓所は雑司ヶ谷霊園[1]。
明治期において懐疑を主観的に表白した最初の小説家であった[要出典]。作中で複数の出来事が起きるにもかかわらず、それを描写する文章量が極端に少なく、要約法・省略法が特徴である[3]。