川合信水
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甲斐国都留郡桂村小沼(現・山梨県南都留郡西桂町小沼)において、父・川合立玄(はるつね)、母・つね(旧名:律)の長男として生まれる[1]。
19歳の時、日本の改革を志す。1890年(明治23年)23歳のときにメソジスト教会谷村基督講義所で、勝沼教会牧師の原野彦太郎から洗礼を受ける[3]。この時、勝沼で巌本善治に出会い、巌本の勧めで女学雑誌社に入り、島崎藤村、北村透谷、徳富蘇峰、清水紫琴、三宅花圃らと交流した。
1893年(明治26年)に東北学院院長押川方義の弟子になり、東北学院邦語神学部に入学し[4]、1896年(明治29年)に卒業した。1897年(明治30年)に仙台市宮城野で宗教的な体験をする。そして、東北学院作文科の教授、日本地理、歴史科教授になる。1901年(明治34年)に山形県鶴岡市の鶴岡日本基督教会の伝道師として赴任した。しかし、ミッションと対立して辞任した。
その後、函館毎日新聞の主筆になる[4]が、重役と対立して辞任する。また、前橋市共愛女学校(現・共愛学園中学校・高等学校)の校長に就任した[4]。
1908年(明治41年)には東京の雑司ヶ谷で独立伝道を行う。戸川安宅(戸川残花)の孔子教会や、松村介石の『道』の協力をした。
1909年(明治42年)、京都府何鹿郡(現・綾部市)の郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)社長波多野鶴吉の招聘により同社教育係として入社[5]。
1927年(昭和2年)1月には『耶蘇基督讃』を著し、基督心宗を創立し、開宗宣言を発表した。1932年(昭和7年)には基督心宗東京教会を設立して、1939年(昭和14年)には六大誓願を発表した。
1948年(昭和23年)には富士吉田市に基督心宗総本山を設立して、1959年(昭和34年)に富士吉田市の初代名誉市民となり[1]、1962年(昭和37年)に死去した。
経歴
- 1867年11月17日(慶応3年10月22日) 甲斐国都留郡桂村小沼において誕生
- 1890年(明治23年) 1年の内に母をはじめ兄弟姉妹家族5人に死別する[1]。メソヂスト谷村教会の初の信者となり、洗礼を受け基督教を学ぶ。巌本善治と出会う。
- 1890年(明治23年)9月 巌本善治の招きにより[6]東京の女学雑誌社へ入り[4]、明治女学校関係者の知遇を得る[7]。
- 1893年(明治26年)2月 東北学院に入り、押川方義に学ぶ[7]。東北学院労働会塾長となる。
- 1899年(明治32年)12月 -33歳 元会津藩士で東北学院幹部の斎藤壬生雄の長女ちよ(18歳)と婚姻[1]
- 1901年(明治34年) -35歳 山形県鶴岡町日本基督教講義所の伝道師となる
- 1901年(明治34年)11月 函館毎日新聞社に入る[7]
- 1904年(明治37年)6月 前橋市共愛女学校(現・共愛学園中学校・高等学校)へ赴任
- 1905年(明治38年)3月 前橋市共愛女学校第5代校長となる[1]
- 1909年(明治42年)4月 -43歳 京都府何鹿郡の郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)教育係に赴任。誠修学院を設置し教育総理に就任[1]。
- 1915年(大正4年)1月 父・立玄死去
- 1924年(大正15年) -56歳 第4回国際労働会議労働代表に選出されるが、体調不良のため辞退[1][4]
- 1927年(昭和2年) 基督心宗を山梨県富士吉田市下吉田6802番地(不二山荘)に開宗[1]
- 1959年(昭和34年)12月23日 富士吉田市名誉市民[1]
- 1962年(昭和37年)7月3日 死去、96歳