巣内式部
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伊予国(愛媛県)大洲比地町の代々染物屋を営む松井八郎兵衛の子として生まれる。諱は信善。幼名は民三郎。幼くして、書籍と薬種を商っていた巣内(丸屋)久兵衛の養子となった。青年時代に阿蔵村の八幡神社宮司の常盤井厳戈の塾古学堂に入り、国学や漢学、和歌を学んだ。同門の塾生に武田竹塘や青野完治、矢野玄道、大村益次郎の暗殺犯となる神代直人がいた。その後家業を継ぎ、養父と同じ久兵衛を名乗ったが、尊王攘夷思想に傾倒していき、安政の大獄や桜田門外の変が起こると、43歳にして遂に家業を廃して国事に奔走する道を選んだ。家族を妻の実家に預けて単身で京都に上った。
万延元年6月、公卿の高松保実に仕える事になり、この時に名を式部と改めた。文久3年(1863年)5月、三条実美の密命を受け、大和国に赴き、同地に潜伏していた滋野井公寿と西四辻公業を説得して京へと連れ戻した。これ以後、滋野井卿の手足となって国事に奔走した。元治元年(1864年)冬、滋野井卿の密命で式部は西国遊説の旅に出立し、大坂、備前国、備中国、美作国、安芸国、長門国、筑前国、豊後国、日向国を渡り歩き元治2年(1865年)の年明け早々京都に戻った。同年3月、高松実村が勅使として日光東照宮の250年祭に出席する事になり、その随行員として日光に赴いたが、東照宮の絢爛豪華さに驚くと同時に、それに対して歴代天皇の陵墓が荒れ放題になっている事を嘆き、討幕の意志を固くしたという。1865年、長州征伐を阻止しようと、鯉沼伊織などと計画を立てたが、新選組により事前に察知され、川瀬太宰や井上謙三、村井政礼、阿閉権之丞、増田仁右衞門などと5月11日の昼頃逮捕された。西本願寺の屯所に連行され取り調べを受け、六角獄舎に入れられた。1867年12月12日に釈放された。鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、滋野井侍従に従って京を脱出し、近江国で綾小路俊実の一行と合流して金剛輪寺で相楽総三などと赤報隊の結成に参加した。しかし隊の進軍には参加せず、相良等かま偽官軍として処刑された際も連座しなかった。朝廷が徳川慶喜の征討令を発すると、軍曹として海軍総督仁和寺宮嘉彰親王に属して北陸に出陣した。明治天皇の東京遷都に随行した後京都に戻った。1869年9月4日、大村益次郎が暗殺されると、同志の一味と見做されたため1870年5月に軍曹の職を解かれ、大洲藩に身柄が預けられた。その後親戚の家に移ったが、1871年の春から粟津村八多浪(現在の大洲市八多喜町甲)の興覚寺の一室に謹慎した。しかし謹慎中の10月5日机にもたれ掛かり死亡しているのが発見された。享年55。後に従五位が追贈された[1][2]。