工藤幹夫
元プロ野球選手(1960-2016)
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経歴
プロ入り前
本荘市立小友小学校卒。本荘市立本荘南中学校時代には軟式野球で東北大会で優勝。当時のチームメイトには村岡敏英がいる。
秋田県立本荘高等学校では、エースとして1977年秋季東北大会に進むが、1回戦で黒沢尻工業高に敗退。翌1978年夏の甲子園県予選で決勝に進出し能代高と対戦するが、2-3で惜敗し甲子園出場を逸する。甲子園出場経験はなかったものの逸材として注目され、読売ジャイアンツ(巨人)も獲得意欲を示していた[1]。
1978年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団。
日本ハム時代
入団当初の投球フォームはアンダースローだったが、オーバースローやサイドスローからも投球し「スパイダー投法」と呼ばれた[2]。
プロ1年目の1979年から一軍(パシフィック・リーグ)の試合で登板を果たし、翌1980年は一軍登板はなかったものの、二軍(イースタン・リーグ)では13勝を挙げて最多勝となる。1981年には、投球フォームもサイドスローに固定し頭角を現す[2][3]。同年は開幕3試合目に先発として起用され好投。大きく期待されたが、なかなか結果を残せず2勝に終わる。しかし、同年の巨人との日本シリーズでは5試合に登板。第1戦では9回に好リリーフ、サヨナラ勝ちを呼び込みシリーズ初勝利を記録する。第3戦でも勝利投手となりシリーズ2勝を挙げた[1]。
1982年は先発として20勝4敗・防御率2.10の成績を収め、最多勝・最高勝率・ベストナインに輝く[1]。この年の9月に右手小指を骨折し、前期優勝の西武ライオンズと対戦するプレーオフは絶望と見られていたが、驚異の回復を見せて10月9日の第1戦に先発[1]。この時は6回0/3を投げて無失点だったものの、打線の援護が無く勝ちはつかなかった。しかし、第1戦から中2日の第3戦に再び先発すると1失点完投勝利、このプレーオフ日本ハム唯一の勝利をもたらした。監督だった大沢啓二によると、医師から「プレーオフには間に合う」と聞き、世間を驚かせようと考えて、ケガの具合は伏せたままひそかに練習をさせたという[4][5]。なおこの年、レギュラーシーズンでは西武相手に6勝1敗と抜群の相性を見せていた[1]。このプレーオフで無理して投げたことで折れた骨はなかなか治らず、12月になってようやくくっついた。これにより大きな後遺症が残った[6]。きちんと矯正せず、骨が曲がってくっつき、そのうち、肩を痛めてしまう。1983年に8勝を挙げたのが最後の勝ち星となり[6]、1984年は1試合のみの登板に終わる。
現役引退後

現役引退後は秋田へ戻り、秋田市手形山中町でスポーツ店(クドウスポーツ)を経営しながら[6]、社会人野球クラブチームの由利本荘ベースボールクラブの監督兼投手を務めていた[7]。
人物
詳細情報
年度別投手成績
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1979 | 日本ハム | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 34 | 7.1 | 11 | 1 | 1 | 0 | 2 | 5 | 0 | 0 | 9 | 6 | 7.71 | 1.64 |
| 1981 | 22 | 11 | 2 | 0 | 0 | 2 | 9 | 0 | -- | .182 | 429 | 100.1 | 107 | 13 | 20 | 2 | 9 | 32 | 0 | 0 | 59 | 54 | 4.86 | 1.27 | |
| 1982 | 28 | 24 | 12 | 3 | 0 | 20 | 4 | 0 | -- | .833 | 786 | 197.0 | 156 | 8 | 48 | 1 | 11 | 96 | 1 | 0 | 54 | 46 | 2.10 | 1.04 | |
| 1983 | 24 | 19 | 5 | 1 | 0 | 8 | 8 | 0 | -- | .500 | 479 | 108.2 | 107 | 13 | 43 | 1 | 9 | 27 | 2 | 0 | 65 | 62 | 5.13 | 1.38 | |
| 1984 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 6 | 0.1 | 2 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 108.00 | 9.00 | |
| 通算:5年 | 78 | 56 | 19 | 4 | 0 | 30 | 22 | 0 | -- | .577 | 1734 | 413.2 | 383 | 36 | 113 | 4 | 32 | 160 | 3 | 0 | 191 | 172 | 3.74 | 1.20 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
記録
- 初記録
- 初登板・初先発:1979年4月12日、対南海ホークス前期3回戦(後楽園球場)、5回0/3を4失点
- 初奪三振:同上、1回表にカルロス・メイから
- 初完投:1981年4月13日、対阪急ブレーブス前期3回戦(阪急西宮球場)、8回3失点で敗戦投手
- 初勝利:1981年6月19日、対南海ホークス前期12回戦(後楽園球場)、5回表に2番手で救援登板、3回無失点
- 初先発勝利:1981年9月16日、対西武ライオンズ後期10回戦(後楽園球場)、6回2/3を2失点
- 初完封勝利:1982年4月20日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(後楽園球場)
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回(1982年)
背番号
- 15(1979年 - 1986年)
- 90(1988年)
冠大会
- 工藤幹夫杯学童野球大会
