工藤貞祐

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生誕 不明[1]
死没 不明[1]
別名 祐貞、通称:二郎右衛門(尉)
 
工藤貞祐
時代 鎌倉時代
生誕 不明[1]
死没 不明[1]
別名 祐貞、通称:二郎右衛門(尉)
幕府 鎌倉幕府若狭守護代
主君 北条貞時高時
氏族 奥州工藤氏
父母 父:工藤時光[2]
高景[3]祐景[4]
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工藤 貞祐(くどう さだすけ)は、鎌倉時代後期の武士北条氏得宗家被官である御内人

北条貞時より偏諱(「貞」の1字)を受けており[3]、貞時が得宗家当主であった期間(弘安7年(1284年)-応長元年(1311年))内に元服したものとみられる。

貞時・高時父子に仕える。幕府内では、徳治2年(1307年)、円覚寺北条時宗忌日斎会には二番衆の筆頭として定められる[5]ほか、得宗領である若狭国守護代延慶2年(1309年)から正中元年(1324年)まで[6]摂津国多田庄の「多田院造営惣奉行」[7]を延慶元年(1308年[8]から元徳3/元弘元年(1331年[9]まで務めたことが確認できる[1]元亨3年(1323年)10月の貞時13回忌法要では、一品経の妙音品や砂金50両を調進している[1]

嘉暦元年(1326年)3月、奥州で発生した安東氏一族の紛争(安藤氏の乱)を鎮圧すべく幕府軍出兵隊の一人として出陣し、同年7月には安東季長を捕らえて帰国している[1][10]。翌嘉暦2年(1327年)の9月7日には母(名や系譜は不詳)が駿河国で死去したようである[1][11]。貞祐自身のその後については不明であるが、前述の通り元徳3年/元弘元年(1331年)までの生存は確認できる。

脚注

参考文献・史料

外部リンク

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