工藤貞祐
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北条貞時より偏諱(「貞」の1字)を受けており[3]、貞時が得宗家当主であった期間(弘安7年(1284年)-応長元年(1311年))内に元服したものとみられる。
貞時・高時父子に仕える。幕府内では、徳治2年(1307年)、円覚寺の北条時宗忌日斎会には二番衆の筆頭として定められる[5]ほか、得宗領である若狭国の守護代を延慶2年(1309年)から正中元年(1324年)まで[6]、摂津国多田庄の「多田院造営惣奉行」[7]を延慶元年(1308年)[8]から元徳3/元弘元年(1331年)[9]まで務めたことが確認できる[1]。元亨3年(1323年)10月の貞時13回忌法要では、一品経の妙音品や砂金50両を調進している[1]。
嘉暦元年(1326年)3月、奥州で発生した安東氏一族の紛争(安藤氏の乱)を鎮圧すべく幕府軍出兵隊の一人として出陣し、同年7月には安東季長を捕らえて帰国している[1][10]。翌嘉暦2年(1327年)の9月7日には母(名や系譜は不詳)が駿河国で死去したようである[1][11]。貞祐自身のその後については不明であるが、前述の通り元徳3年/元弘元年(1331年)までの生存は確認できる。