工部美術学校
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1876年(明治9年)11月6日、工部大学校の附属機関として「工部美術学校」が設置された。西欧文化の移植として当然お雇い外国人が起用されたが、全てイタリア人であった。美術の先進国として認知されていたフランスではなく、ルネサンス美術の中心地であるイタリアから招聘された点が興味深い。11月25日、彫刻奨励のため彫刻学科生徒に官費就学生を制定した。12月14日、女子生徒の入学を許可した。
画学科をアントニオ・フォンタネージ、彫刻科をヴィンチェンツォ・ラグーザが担当し、また二人と一緒に招聘されたヴィンチェンツォ・カペレッティが装飾図案、用器画を担当した(カペレッティは参謀本部庁舎の設計を手がけるなど工部大学校の建築科にも関わっていたと考えられている)。3人は1876年8月29日来日し、契約書に調印した。工部美術学校に入学した生徒は、総数でも60名を超えないと考えられている。
しかし西南戦争後の財政事情の悪化のため、十分な教育ができないと考えたフォンタネージは1878年に帰国してしまった。代わりにフェレッティ(Prospero Ferretti, 1836-1893)[1]が招かれたが、フォンタネージに心服していた画学科の学生たちは不満をもち、多数が退学した(退学者たちは十一会を設立した)。後にフェレッチに代わり、サン・ジョヴァンニ(Achille San Giovanni)が就任した。
さらに、アーネスト・フェノロサの提言などもあって日本美術の再評価が行われ、国粋主義が台頭してきた。こうした背景の中、1882年(明治15年)6月30日に彫刻科が廃止、7月31日ラグーザを解任し、8月ラグーザは清原玉をともなって帰国し、翌1883年1月には画学科も廃止されて、工部美術学校は廃校に到った。創設後、卒業・修業証書を受けた者は35名。2月11日サンジョヴァンニを解任。