巨曾倍津嶋
奈良時代の貴族
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出自
経歴
天平2年(730年)12月の『大倭国正税帳』に名前が現れるのが初見。「介正六位上勲十二等」と署名されている。
同4年(732年)8月、山陰道節度使の判官として、外従五位下を授けられた[2]。この時の山陰道節度使の長官は多治比県守。
同10年(738年)8月20日、長門守の時、右大臣橘諸兄宅での宴で詠んだとされる
長門(ながと)なる 沖つ借島(かりしま) 奥まへて 我(あ)が思ふ君は 千歳(ちとせ)にもかも (長門にある 沖つ借島の名のように 「おく」深く 私が思う君は 千年も長生きなさってください)[3]
この岡(をか)に雄鹿(をじか)踏み起(おこ)し うかねらひ かもかもすらく 君故(ゆゑ)にこそ (この岡で、雄鹿を蹴り起こし、うかがい狙うようにして あれこれ努めるのも みな君の御徳ゆえです)[4]
の2首が『万葉集』に収められている。