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市民運動

政治的・社会的問題の解決を目指して、市民が民主主義に基づき連帯を求めながら、共通目的の達成を目指す政治運動・社会運動 From Wikipedia, the free encyclopedia

市民運動(しみんうんどう)は、政治家ではない人々が、職業・階層・階級によらずに集まり、社会変革や抗議を目的として、集団的・継続的に働きかける行動である。具体的には、平和運動、公害反対運動、消費者運動、環境保護運動などがある。

市民運動をまとめるのは市民団体だが、市民団体がすべて変革や抗議に関わるわけではないので、市民運動にたずさわらない市民団体もある。職業・階級・階層にもとづく運動を含めると、社会運動という。市民運動でない社会運動の代表は労働運動である。

市民運動は日本で作られた概念で、欧米からの翻訳語ではない。それもあって、日本の学術研究では「社会運動」の語を用いることが多く、「市民運動」は運動団体・参加者の自称か、政治・社会評論か、個々の事例研究で使われる。以下ではもっぱら日本の市民運動について述べる。

用語と歴史

戦前。用語の成立前

「市民運動」の語は、1928年(昭和3年)、1929年(昭和4年)頃、東京市会の議員が電気やガスの料金の問題につき、市会の中だけでなく、市民の多くの要求にしようとしたときに用いられた[1][2]。その手段は区会への働きかけや[1]、政治家の演説会で[3]、市民は主体ではなかった。東京市の政治家が一時的に使った言葉で、それ以上の意味はない。

後に市民運動の名で呼ばれる活動と同じものは戦前にもあったが、それらは労働運動と農民運動に無産政党の政治活動まで含めた社会運動の一部であった。社会運動と社会主義は「社会」の字が同じなので、当時、社会運動を社会主義に対応する活動と考える学者もいた[4]。しかし、列挙されたものでは労働運動、小作運動、水平運動、廃娼運動、教育運動、さらに国会に議席を持たない政治団体の活動と、右翼の国粋主義まで含み[5]、今日の社会運動概念と同じかより広いものである。そうした社会運動は、国粋主義的・国策協力的な右翼の運動を除き、1930年代に弾圧されて壊滅した。

戦後日本の市民運動

成田空港のための土地収用に反対する立看板。三里塚闘争(2009年)

戦後には多種多様な分野で社会運動が息を吹き返したが、戦前から、社会運動の中で労働者・農民の運動を本流とし、それ以外を傍流視する思想風潮があった。戦後しばらくの日本では、民衆の運動は選挙か革命を通じて政治を動かすと考えられていた。どちらの場合でも重要なのは数が多く組織が固い労働者・農民である。労働者・学生のような当時の社会運動の主な担い手に属さない「その他」に付けられた名が、市民運動である。

1950年代末から各地に現れた公害問題では、労働者・労働組合が公害企業に味方したり、問題を無視することがしばしばあった。そこでは、消費者として、生活者としての市民をよりどころにする市民運動が、公害企業に立ち向かった[6]。ただし、初期の公害被害者は水俣病の漁民、新潟水俣病・イタイイタイ病の農民であり、彼らが市民の運動を自称することはなかった。

市民運動の言葉を広めたのは、1965年から1974年まで、ベトナム戦争へのアメリカ軍介入に反対して活動したベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)である。ベ平連は市民運動を自称した最初期の運動で、特定の政党と結びつかない市民の運動と自己規定した。1970年代になると、公害反対運動を含め、様々な社会運動が市民運動を自称するようになり、市民運動は「労働運動と肩をならべるほど大きな運動」と認められた[7]。

市民運動は、日本国憲法に書き込まれた市民的権利の実現を求める運動とも考えられた。例えば政教分離違反を問題にした津地鎮祭訴訟である[8]。手段として訴訟を用いる運動では、憲法上の権利と運動の要求を意識的に合致させた。

参加者の範囲

市民運動の参加形態は、広い・狭いの両極に分かれる。広いほうは、参加の範囲を限定せず、心ある人すべての参加を求める。公共的な関心から立ち上がった人たちが、薄い密度で全国的に広がるものである[9]。平和運動は広く薄い運動の典型で、とりわけベ平連は国際的な広がりをもって知られた。

それに対して、公害反対運動や、地域の問題に密着した住民運動のような、参加範囲が狭く、かわりにその範囲での参加率が高い運動もある[9]。そのような運動を市民運動に含めない考えもあるが、実際には分けるのは難しい[10][11]。狭い地域の運動を全国から支援する形になったり、住民運動が相互に連携することもある。

問題によっては、専門家の役割が特に大きくなることがある。公害問題の開始時には、被害と公害の因果関係を明らかにした医師など専門家の存在が特に重要であった[6]。訴訟を中心にすると、弁護士の協力と訴訟費用支援が重要になる。その場合、限られた範囲の被害者・当事者と、広く薄い全国からの支援者が結びつく運動形態をとる。

市民運動と組織・政党

ほとんどの市民運動は、政党との関係を持たず、政治権力に関心がないことを標榜する。内情は様々であって、事実上特定の政党と連携しているが他の人の参加も受け入れるもの、広く政党・政治家の協力を求めるために特定政党との結びつきを持たないもの、すべて政党との関係を拒絶するものがある。

戦前からと1960年代までの(市民運動という言葉が普及する前の)大衆運動は、小さな力しかない個人でも、集まって団結すれば大きな力を持つ、という考えをもとにしていた。その場合、個々ばらばらに動くことは嫌われ、全国規模の組織を作り、全体が一斉に動くことが大きな目標になる。組織の中心には、戦前なら無産政党、戦後には革新政党(日本社会党と日本共産党)の活動家・支持者がいることが多かった。

地方・農村部の公害反対運動では、自由民主党の強固な地盤である地域で、自由民主党の政治家が被害者に冷淡な状況の中、日本社会党や日本共産党の議員・支持者が公害問題にとりくむことがあった[12]。そうした場合、地域住民の心情としても、政治行政に働きかけるときの便宜としても、政党色を出さないことが賢明とされた。

ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)は、政党と結びつかないことを重要視し、「統一ではなく連合、組織ではなく運動」を呼びかけ、下からの自発性を重んじた[13]。個人の自由な行動を集めた連合体として市民運動がある、という考えである。これは日本の市民運動だけの特徴ではなく、1960年代後半の西欧・北米の社会運動でみられた特徴で[14]、以後の市民運動のモデルになった。政党否定は、急進的な部分では議会制民主主義への反感を拠り所にしていたが[15]、ふだん政治に関わらない「普通の人」の参加を意識して言われることもある。

そうは言っても、市民運動の要求は政治問題として取り上げられることで解決に導かれるものがほとんどなので、結局は政党政治と無縁ではない。公害、水質汚染に反対した市民運動は、直接的な選挙活動はしなかったが、その要求をくみとって、1970年代に大都市部で革新自治体が生まれる原動力になった。20世紀末からは、尼崎市、生駒市、逗子市や箕面市、宮崎県のように、革新自治体とは異なる市民派や虹と緑と呼ばれる市民運動、政党ではなく市民運動ベースにした政治活動(例:生活協同組合が母体の「生活者ネットワーク」)等で地方自治体の首長や議員に当選するケースも見られる。

出典

参考文献

関連項目

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