伊東光晴
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一橋の杉本栄一ゼミや都留重人ゼミで学び[1][2]、杉本の影響の下、近代経済学、マルクス主義を介した理論経済学の研究に従事する。また同期の山口敏明(東ソー社長や経済同友会副代表幹事を歴任)らとともに一橋新聞部にも参加[3][4]。予科同期の佐藤金三郎(元横浜国立大学教授)とは生涯親しく交友した[5]。
敗戦により、社会のロマンを解こうと経済学の道に入る。特別研究生時代は、日曜日朝から杉本の家で開かれるゼミに、同じく特別研究生の浅野栄一(中央大学名誉教授)や、ゼミOBの宮崎義一(京都大学名誉教授)、宮崎犀一(元東京女子大学教授)とともに出席し、杉本とともに宮川公男(一橋大学名誉教授)、玉井龍象(金沢大学名誉教授)、近藤鉄雄(大蔵官僚、元労働大臣)らの指導を行った[3]。
指導教官杉本の急逝に伴い、杉本の同期だった笠信太郎や田中愼次郎から朝日新聞社に誘われたり、森嶋通夫からも大阪大学に誘われたが、東京に留まるため東京外国語大学に着任。経済学専攻ではない学生の関心に合わせジョン・メイナード・ケインズを使ったイギリス社会・経済思想やヨーゼフ・シュンペーターを通じたドイツ社会・経済思想などの研究を始めた[5]。
経済学の理論的・思想的研究、現代資本主義論の研究を進めた。経済学に技術の問題、経営の問題が抜けていることをいち早く指摘。とりわけ、経済企画庁(現・内閣府) ― 国民生活審議会 では、第1次から長年にわたり委員をつとめた[6]。また、「エコノミスト賞」選考委員会委員長(~第47回)をつとめた。1960年代から80年代にかけては市民の立場に立ったテレビ解説でも知られた[要出典]。
略歴
学歴
- 1945年 - 東京都立第三中学校(現東京都立両国高等学校)卒業(42回)、陸軍経理学校入学、東京商科大学(現一橋大学)予科入学[5]
- 1948年 - 東京商科大学(現一橋大学)学部入学
- 1951年 - 東京商科大学(現一橋大学)学部卒業
- 1954年 - 東京商科大学大学院特別研究生修了
- 1956年 - 東京商科大学大学院特別研究生修了
職歴
- 1956年 - 東京外国語大学講師
- 1961年 - 東京外国語大学外国語学部助教授
- 1967年 - 東京外国語大学外国語学部教授(1970年3月まで)
- 1970年 - 法政大学非常勤講師
- 1971年 - 法政大学経済学部教授
- 1977年 - 千葉大学人文学部教授
- 1981年 - 千葉大学評議員(1983年まで)
- 1985年 - 京都大学経済学部教授(経営政策大講座)
- 1987年1月 - 京都大学大学院経済学研究科現代経済学専攻創設委員長
- 1987年4月 - 京都大学大学院経済学研究科現代経済学専攻現代経済学講座教授
- 1988年 - 京都大学評議員(1990年1月まで)
- 1990年1月 - 京都大学経済学部長・大学院経済学研究科長(1991年3月まで)
- 1991年9月 - 放送大学教養学部教授(1996年3月まで)
- 1996年 - 福井県立大学大学院経済・経営学研究科初代研究科長
- 1996年 - 鹿児島経済大学大学院開設準備委員会顧問
- 2001年 - 学校法人津曲学園理事(2013年3月まで)
- 早稲田大学客員教授
学外における役職
1978年から1983年まで理論経済学会理事、1985年経済学史学会幹事、1986年経済政策学会常任理事。
日本学術振興会学術顧問、郵政省電気通信審議会NTT特別部会長、厚生省中央社会保険医療協議会調査実施小委員会委員長、厚生省少子・高齢社会看護問題検討会座長、厚生省歯科医師の需給に関する検討会座長、経済企画庁国民生活審議会委員、財団法人生命保険文化センター評議員、毎日新聞社「エコノミスト賞」選考委員会委員長、医療経済研究機構所長などを歴任。
受賞歴・叙勲歴
主張
批評
- 宮崎哲弥は、リフレの重要性を説く松尾匡の著書『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書、2014年)を論じる中で、左派・リベラル派の経済政策のワールド・スタンダードを教えてくれ、伊東一派が隠蔽したものが明記してある、と述べている[9]。
- 依田高典は、伊東経済学というものはよく判らない。現実馬鹿を哀れみ、理論崇拝者を侮辱し、前者に対しては理論家として、後者に対しては経験主義者の如く振る舞う。奥行きが広く、捉え所がない。しかし、魅力がある。その根源が何であるのか、常々考えるが答えは見つからない。一言で云えば、「強烈なリアリズムと根強い常識」というものであろう。と述べている。(『不確実性と意思決定の経済学』)
- "全て"の財の価格が市場均衡的に需給の一致した点で決まるという考えかたには批判的であり、青木昌彦は学生に、伊東先生の授業でバッテンを描いて価格決定を説明するとそのままバッテンをもらうぞと助言していた。
- 都留重人は、伊東が一つの型にはまらず、状況に応じて有用な理論を持ってきて、政策を論じることから double-jointed 経済学だと評していた。