帝国公道会
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概略
創設
沿革
機関誌『公道』を発刊。のち書名を『社會改善公道』と改め、松井庄五郎の設立した大和同志会と共同歩調をとり、同会の機関誌『明治之光』と、帝国公道会の機関誌『社會改善公道』を相互に共同刊行。世論の喚起を促し、また各地の部落の現状を調査して差別問題の調停や北海道などへの移住による生活改善策の実施を図った[1]。
大正7年(1918年)米騒動が発生すると、水野錬太郎内務大臣の要請を受けた大江は各地の部落を回って軽挙妄動を慎むことを諭した。大正8年(1919年)2月23日に各界名士や部落指導者を招いて第1回同情融和大会(どうじょうゆうわたいかい)を開催して「部落改善」「同情融和」を決議。この時、松井庄五郎は、奈良県の部落代表として参画した。しかし、同年7月16日、会長の板垣退助が薨去[3]。これに伴い、大木が第2代会長に就任し、大江が副会長に就任した。また同年、大木遠吉は大日本国粋会総裁に就任。融和団体に国粋思想が深く浸透するきっかけとなった[1]。同年10月、高知県公道会が結成される [5]。
大正10年(1921年)2月13日に、第2回大会を開き[6]「明治天皇の聖旨を奉戴し、上下一致同情融和の実を挙げむことを期す」とする決議を採択した。
全国水平社との対立
大正10年(1921年)2月の大会では、帝国公道会の指針である「同情融和論」に反対し、部落大衆による自主解放を求める檄文が撒かれる一幕があり、明治天皇の恩恵と説く考えを欺瞞として批判を行う派閥(左派)が登場した[6]。また同年、大江が死去したことにより、求心力が衰微すると、檄文を撒いた一派らが左派を集めて会を割り、大正11年(1922年)3月3日、全国水平社を結成してしまう。会を割られた帝国公道会は、大正12年(1923年)3月に起きた「水国事件」に代表されるように、全国水平社と対立を深めた。しかし、全国水平社の左傾化に、皆が納得していた訳ではなく、昭和2年(1927年)1月、全国水平社の重鎮・南梅吉らが左派運動に疑問を呈し「水平社」を割って右派を結集し「日本水平社」を組織。この派閥は融和運動に路線を戻った[注釈 2]。



