帰化軍
From Wikipedia, the free encyclopedia
民国政府は1912年すでに建立されていたが、1912年トムル(鉄木耳)のハミでの蜂起が失敗したので、新疆で封建制度が続くこととなった。1930 年3月、シャー・マクスド(en:Maqsud Shah)親王が病で亡くなると、その子ナズィル(聶孜爾)が王位を継承した。彼の残酷な政策により、現地住民は省主席金樹仁の改土帰流の実施と親王および貴族の統治地位の廃止を要望するようになった。金樹仁は决定開拓支援(放荒)と農地税(田賦)の徴収を決定した。しかし王府と地方政府の妨害により、政策の税は農民の上にのしかかった。いくばくの地方勢力がハミで挙兵し、ホージャ・ニヤーズを首領に頂いた。省軍に敵わなかったため、ホージャ・ニヤーズの部下のユルバース・カーンは甘粛へ行き、現地の軍閥馬仲英を新疆に入れ共同作戦をした。
成立と作戦
情勢に対応できない金氏政府は、まず外交官の汝孝昌や趙得寿や克富斎らを省政府を代表させて派遣し、白系ロシアのリーダーと会談した。新疆公路局長で実業家のゲミレンケン(Гемиленкен、格米林肯)は最終的に協議を達成し[2]1931年7月の後、イリ屯墾使張培元によって最初にイリで帰化軍の募集が行われた。白系ロシア軍人も新疆で勢力を発展させて反攻しようと目論んでいた。よって8月中旬までに約500人余りを募集してまず騎兵団一つに編成し、モギトロフ(莫古特洛夫 Могутров)を団長とし、3つの騎兵連隊と1つの砲兵連隊と1つの機関銃連隊を管轄させた。のちに二つの団まで拡大し、団長はそれぞれアントーノフ(Антонов)とパピンゴト(巴平古特 Πапингот、ドイツ系)であった。[3]
帰化軍と聖君は奇台作戦において、鎮西(現在のバルクル)を回復し、ハミの包囲を解いた。トルファンとピチャンが陥落すると、帰化軍は再度敵と戦った。その後「帰化軍騎兵第二団」が組織され、その下には三つの騎兵連隊とそれぞれ砲兵連隊と機関銃連隊が一つずつ設けられ、総数官兵600人あまりで、団長のフロフスキー(Хловский、赫労夫斯基)は省都ウルムチの包囲を解くことに成功した。
クーデター
馬と盛の争い
馬仲英はクーデターを知ると、再度派兵して新疆を占領しようとした。盛世才は帰化軍を派兵して東北義勇軍と合同で作戦を行い、再度馬家軍を撃退した。
1933年12月、張培元は塔城で反盛反乱を起こした。盛の部下の姚雄と包爾汗はイワノフ(Иваннов)を通じて塔城帰化軍を募集して組織し、鎮圧に成功した。この軍は後に“帰化軍騎兵第三団”に改編され、その下には三つの騎兵営と一つの砲兵連隊の合計兵四百余人が設けられ、省都に移動した。
1934 年1月イリの張培元とハミの馬仲英は合同して省都に突撃し、盛世才はソ連に救援を求めた。ソ連軍のクミチ(Кумиц 庫米斉) 将軍とバルギン(Валгин 沃爾根) 団長は越境して新疆に入る時、“アルタイ帰化軍”と偽称した。赤軍の攻勢は激しく、張培元は破れて自殺し、馬仲英はソ連へ逃亡した。