平信業
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久寿2年(1155年)新帝・後白河天皇に寄せられた所衆並びに滝口の中にその名が見える[3]。
後白河院政期に入り、保元3年(1159年)従五位下・右衛門尉に叙任される。仁安元年(1166年)従五位上に叙せられるが、その後以下の通り後白河院の近臣としての活動が見られる。
- 仁安2年(1167年)正月の女御家(平滋子)の侍始めに遠江守として出席[4]。
- 仁安2年(1167年)7月の後白河院の新造山科殿移従に関して、子息の平業忠の長門守任官の功を募って増進[5]。
- 承安4年(1174年)後白河院の厳島行幸に業忠とともに供奉[6]。
安元2年(1176年)異例の抜擢により大膳大夫に任ぜられる[7]。その後、治承3年(1179年)治承三年の政変で平清盛により院政が停止されると信業は業忠とともに解官されるが、翌治承4年(1180年)3月の後白河院出京に際して大膳大夫として出向いており、これまでに信業は復任したとみられる。
寿永元年(1182年)7月14日出家し、同年8月31日卒去。享年45。後白河院は信業の死を嘆き、翌日に予定していた賀茂神社への参詣を取り止めたという。
後白河院の近臣として「法皇御第一者也」と評された(『山槐記』)[8]