平山敏夫
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略歴
1906年(明治39年)4月1日、父・甚四郎、母・ウタツの長男として、鹿児島県大島郡の加計呂麻島諸鈍に生まれる。鹿児島県の志布志中学に進学後、1921年(大正10 年)、東京の麻布中学に転校し、1924年(大正13年)4月、海軍兵学校に進学した。海軍兵学校在籍中に姓を平(たいら)から平山に改める。1927年(昭和2年)3月、海軍兵学校を第55期生として卒業する。
1939年(昭和14年)11月、海軍少佐に任じられて以降、駆逐艦波風、水無月、白雲、秋霜、早霜の艦長を歴任。早霜艦長として参戦した1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦では右下膝に機銃弾を受け戦傷、別府の第三海軍病院に入院した。1945年(昭和20年)2月5日、全治出勤を命じられ、同年3月10日、駆逐艦涼月艦長に着任した。
同年4月6日から8日の天一号作戦に第41駆逐隊2番艦の駆逐艦涼月艦長として参戦。4月7日午後1時8分、戦艦大和を護衛する駆逐艦涼月は米軍機の猛攻を受ける最中、艦橋と第二砲塔の間の右舷付近に艦上爆撃機カーチスSB2Cヘルダイバーから放たれた推定150キロ爆弾を被弾、縦7メートル横4メートルほどの大破孔を生じる。火災発生に加え艦は大きく前傾し前進不能に陥る。午後4時39分、連合艦隊司令長官より作戦中止が打電されるが、涼月の無線機器はほとんど破壊され受電の術はなかった。艦上では平山敏夫艦長と倉橋友二郎砲術長(先任将校、海軍少佐)の間で、このまま後進で沖縄に向かうべきか、それとも佐世保に帰還し捲土重来を図るべきかを巡って激論が交わされた。最終的に平山艦長は倉橋砲術長の意見を取り入れ佐世保帰還を決断した。駆逐艦涼月は4月7日の夕刻から翌8日の昼過ぎにかけて後進微速で航行を続け、8日午後2時半ごろ、佐世保港への帰投を果たす。
天一号作戦には、海兵55期の同期生である、駆逐艦冬月の山名寛雄艦長と駆逐艦雪風の寺内正道艦長も参戦しており、同期3名の艦長はいずれも佐世保に生還している。
終戦時、平山は川棚突撃隊天草派遣隊長に任ぜられていたが、終戦直後の一時期は輸送船や復員船の船長の職に就き、その後、公職追放される中、海軍時代の伝手で深田サルベージ株式会社に勤務した時期もあった。1971年(昭和46年)8月17日、死去。
年譜
- 1924年(大正13年)4月:海軍兵学校入校
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)10月1日:海軍少尉に進級
- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年)
- 1932年(昭和7年)
- 1933年(昭和8年)
- 1935年(昭和10年):
- 1936年(昭和11年)12月1日:駆逐艦「夕凪」水雷長兼分隊長(連合艦隊)
- 1937年(昭和12年)11月15日:駆逐艦「朧」水雷長兼分隊長(第二艦隊)
- 1938年(昭和13年)12月15日:駆逐艦「漣」水雷長兼分隊長(予備艦)
- 1939年(昭和14年)
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)9月20日:駆逐艦「水無月」艦長
- 1942年(昭和17年)11月15日:駆逐艦「白雲」艦長兼駆逐艦「大波」艤装員長
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
参考文献
- 軍艦防波堤連絡会東京支部『月は沈まず 不沈艦《涼月》の航跡』 三省堂書店/創英社 ISBN 4879233242