1946年(昭和21年)、岡山県高梁市中原町の平松茂の子として出生する。その後、地元の岡山県立高梁高校へ進学する。同期には、JR北海道社長をつとめた小池明夫、最高裁判所司法研修所教官・電通監査役の濱田俊郎、日本ビクター取締役・アドテック社長の三村益一郎がいる。1965年(昭和40年)同校を卒業し、武蔵野美術大学へ進学する。1970年(昭和45年)同校を卒業し、油絵画家となる[1]。
油絵画家としての人生をスタートさせた平松は、1975年(昭和50年)に椿近代画廊で初めての個展を開く。翌年の1976年には、ヒューマニズムを題材としたブルガリアのソフィアトリエンナーレへ招待出品する。1977年には、モスクワ平和風刺画展に出品するなど、海外の絵画展へ積極的に出品をおこなった。そして、1979年(昭和54年)に、2度目のソフィアトリエンナーレに出品し、高評価を得た同作品『緑の太陽』は、ブルガリア共和国のナショナルギャラリーとして買い上げとなった[2]。
その後も、個展を10回以上開催し、1986年(昭和61年)には、40歳のときに丸木位里夫妻と共に臥竜会を結成する。また、同年、朝日新聞社の後援で朝日アートギャラリーを開催する。また、地元の高梁総合文化会館で、父親と友に親子展を開催し、翌年には、朝日アートギャラリーを再度開催し、臥竜展と命名し、毎年(1986-1989年まで、朝日新聞がスポンサー)開催した。臥竜展は、1995年に丸木位里が亡くなるまで続いた[2]。
1997年(平成9年)には、フジテレビのドラマスペシャル「町」で、平松の描いた「三平のり平さんの肖像」が使用され、1998年(平成10年)には、丸木位里・俊・平松利昭・茂特別展を地元の高梁歴史美術館で開催した[2]。この後も、現在に至るまで個展を開催するなど精力的に活動している。