平沢隆好
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津島高卒業後の1974年に日本通運名古屋へ入社し、1975年の都市対抗では補強選手となるも登板はなかった[2]。1975年の日本選手権では1回戦で先発完投したが惜敗[3]。
同年のドラフト5位で南海ホークスに入団[1]。スライダー、シュートが武器であったが、最初の2年間は二軍生活を送る。2年目の1977年はケガ続きで、ウエスタン・リーグでも4試合にしか投げられなかったが、江夏豊らが抜けた投手陣で「ワンポイントでも左なら使えるだろう」と一軍入り。3年目の1978年4月13日に近鉄戦(大阪)で初登板を果たし、8回表から星野秀孝・佐々木宏一郎の3番手で2回を無失点に抑えた。6月12日の近鉄戦(日生)では初先発を果たすが、6回0/3を2失点で初敗戦。8月19日のロッテ戦(大阪)では先発で二塁も踏ませないという完璧なピッチングをし、5安打散発のシャットアウト勝ちでプロ初勝利を飾った。首脳陣が左腕不足に頭を抱え、唯一、実績のある星野が投げられず、上田卓三サブマネージャーを現役復帰させるなどしていた中、平沢は初完投初完封初勝利という離れ業をやってのけた。1980年にはフォームを左腕の横手投げに変え、8月16日のロッテ戦(大阪)で2回途中から田村政雄を救援してシュート、スライダーでうまく攻め、1失点のロングリリーフで1年ぶりの勝ち星を挙げた。これが最後の勝ち星となり、1981年には開幕直後こそ一軍に名を連ねるも二軍落ち。左打者用のワンポイントに使ってみても四球や安打を許したため、首脳陣が二軍で鍛え直しを命じたが、一軍再昇格後は好投。8月15日の日本ハム戦(大阪)では4回までに3失点の山内新一の2番手で5回からマウンドに上がったが、残りの5回を被安打3の無失点に切り抜けた。板に付いた新しいフォームでカーブ、シュートを巧みに操り、上手から投げるストレートは重く入った。同18日の近鉄戦(日生)でも3回途中から登板し、5回を被安打2の無失点に抑えた。チームは3-3で引き分けたが、ドン・ブレイザー監督は「平沢の好投が光った。こんな投球をしてくれるのなら、ローテーション入りも考える」と言った。3試合11イニング無失点と首脳陣の期待に応えていたが、30日の阪急戦(西宮)の6回に山内新をリリーフして登板し、6、7回を無難に抑えるも、8回に先頭の中沢伸二に左翼席へ6号本塁打をかけられ、これが決勝打となり敗戦。1983年には一軍登板がなくなり、自由契約となったため現役を引退。