平田吉胤
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豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村[4](駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で北鉄十郎の二男として生まれた[1][2][4]。国東郡草地村(現豊後高田市)の涵養舎で漢学を修め[4]、同志社英学校、札幌農学校を経て東京専門学校で学んだ[3][4][注 1]。1891年(明治24年)[4][注 2]下毛郡城井村[4](耶馬溪村、中耶馬溪村、耶馬溪村、耶馬溪町を経て現中津市耶馬溪町)の素封家・平田カス(故猛郎の妻)の養子となり[1][4]、1899年(明治32年)家督を相続した[2]。
家業の農業を営む[2]。道路・橋梁の整備に寄付を行い、水田の開墾、耶馬溪の観光開発を行うなど地域の発展に尽力した[4]。その他、豊前銀行取締役となり[1][2]、1927年(昭和2年)から1935年(昭和10年)まで耶馬溪鉄道社長を務めた[2][4]。
また1900年(明治33年)城井村長に就任[3][4]。1902年(明治35年)から死去するまで村会議員に在任[4]。1907年(明治40年)から大分県会議員に3期在任し県会議長も務めた[4]。1925年(大正14年)貴族院多額納税者議員に互選され[4]、同年9月29日[5]から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した[3]。在任中は同成会に所属した[3]。
