仁和2年(886年)篤行を含む興我王の子女5人が平朝臣姓を与えられて臣籍降下する。
寛平5年(893年)文章生に補されると、秀才を経て、寛平10年(898年)対策に及第し、翌昌泰2年(899年)式部少丞に任ぜられる。
延喜3年(903年)従五位下・三河守に叙任されて地方官に転じると、延喜8年(908年)筑前守、延喜9年(909年)には大宰少弐を兼帯するなど地方官を歴任した。またこの間の延喜8年(908年)には治国の功労により従五位上に叙せられている。延喜10年(910年)1月卒去。
勅撰歌人として、『古今和歌集』に和歌作品1首が採録されている[1]。