平賀清恒
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寝太郎の由来とされる遺構
山口県山陽小野田市の厚狭地区に千町ヶ原とよばれる一帯があり、何者かによって大井手(寝太郎堰)の築造及び導水により受益面積383haの水田地帯が拓かれている。 寝太郎荒神社が祀られているが元となる禰太郎塚という石祠は寛延3年(1750年)には地元の農民により造営されている。[1]大井手(寝太郎堰)は戦後の大洪水で流失し現存しないが18世紀頃の技術が用いられていたとされる。(現在の寝太郎堰は昭和38年(1963年)コンクリートで造り直されたものである。)
山陽小野田市では江戸時代中期に寝太郎の民話と厚狭川の堰や用水路が結びついたと紹介している。1842年の「防長風土注進案」には「15~16世紀の頃、一人の翁が仕事もせず、いつも寝てばかりいるので、世人から「寝太郎」と呼ばれていた。やがて彼は沓村に大きな堰を造って厚狭川の流れを引き、千町ヶ原を開いて美田とした。」とあり、寝太郎の父が庄屋であることや三年と三月寝て暮らしたこと、佐渡金山で資金を調達した話などが加えられ形成されたとも推測されている。[2]
三年寝太郎の話が全国に広まったのは1953年2月2日の朝日新聞「民話めぐり」に山口県広報課長・岡不可止が寄稿したものが元とされる。[3]
史実の佐渡の金山
佐渡金山の金脈が発見されたのは1601年(慶長6年) である。
史実の平賀玄信の子孫
史実の冷泉隆豊の室
冷泉隆豊の室は平賀玄信の娘ではなく安芸国人・平賀弘保の娘であり、隆豊の実弟の吉安豊英は大寧寺の変の後に平賀弘保を頼り毛利氏に仕えたとされる。