弘化2年(1845年)6月19日、薩摩国鹿児島城下滑川に生まれる。父は郷田兼副で、平野はその三男にあたる。幼名は正之丞。幼少期に平野家を継ぎ、以後平野正介を名乗った。
戊辰戦争では薩摩藩兵として奥羽に出征し、軍功を挙げて凱旋、賞禄8石を与えられた。明治2年(1869年)、鹿児島常備隊の小隊長に就任し、藩兵・新政府軍双方の実務経験を積んだ。
明治4年(1871年)3月、乃木希典、貴島国彦らとともに正七位・陸軍近衛少佐に任じられる。この頃、郷田兼致の名も用いている。明治5年頃に官職を退いたのち、明治8年(1875年)9月には非職ながら従六位に叙せられた。
退職後は鹿児島の私学校に関わり、桐野利秋のもとで生徒の指導にあたった。また吉野開墾に従事し、開墾場の監督として常に吉野に在住したとされ、その温厚な人柄から私学校生徒や壮士たちの信望を集めた。
明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると挙兵側に加わり、当初は第5番大隊第7番小隊長として熊本城攻撃軍に参加した。編成替え後は中隊長、のちに常山隊大隊長となり、人吉方面の守備、さらに延岡方面の戦闘に従事した。
8月17日には西郷隆盛に従って可愛岳を突破して鹿児島へ戻り、9月24日、城山最後の戦闘に参加して戦死した。享年33。
兄には長兄・郷田七郎、次兄・郷田八兵衛(兼用)少尉があり、いずれも西南戦争で戦死している。
墓所は南洲墓地。