幸若遺跡庭園
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歴史
幸若舞は、室町時代中期の越中国守護桃井直常の孫(または曾孫)の桃井直詮(もものい なおあき)を創始とする[4][2]。幸若とは、直詮の幼名である幸若丸に由来するという[4]。幸若舞は戦国時代に武将たちに愛好され、江戸時代には将軍家御用達となり、格式が高い舞であったが、儀式化、曲目の固定化、稽古の秘伝化により、民衆に浸透すること無く、やがて衰退した[4][5]。現在では、福岡県みやま市瀬高町大江にのみ伝わる芸能となっており[6]、国の重要無形民俗文化財に指定されている[7]。
直詮の子孫は、越前国丹生郡西田中(現在の福井県丹生郡越前町西田中)に住み、越前国朝倉氏の庇護を受け、織田信長や豊臣秀吉からも知行を与えられ、江戸時代には徳川家の保護を受けていた[4]。幸若家はいくつかに分かれており、敦賀にも幸若舞を伝える家系があった。この敦賀幸若家については、安土桃山時代の1578-1588年に計6回、幸鶴(こうかく)太夫が三河国岡崎を訪れ、舞を披露しており[4]、また江戸時代初期の正保年間には、諸鶴(しょかく)太夫が100石の知行を与えられたと記録されている[8]。その後、諸鶴太夫の子の長次郎が1652年(承応元年)に早逝したことで、敦賀幸若家は断絶し、知行は小浜藩主酒井忠勝の預かりとなった[4]。
1660年(万治3年)に、忠勝は西田中の幸若家の久次郎に知行を与え、1677年(延宝5年)に久次郎は五郎右衛門と名を改め、敦賀へ移住し、敦賀幸若家を再興した[4]。屋敷は、当初三の丸(三島町一丁目)にあったが、1759年(宝暦9年)に三五右衛門(さんごえもん)が現在地(三島町二丁目)に移り、屋敷と庭園ができた[4]。以後、そのまま幕末を迎えるが、1870年(明治3年)に幸若の領地が本保県の管轄となると、敦賀幸若家は東京へ移住、屋敷地は売却され、庭園のみが残った[4]。

