広済寺 (川越市)
From Wikipedia, the free encyclopedia
所在地
埼玉県川越市喜多町5-1
位置
北緯35度55分37秒 東経139度28分57秒 / 北緯35.9269765度 東経139.4824013度座標: 北緯35度55分37秒 東経139度28分57秒 / 北緯35.9269765度 東経139.4824013度
山号
青鷹山
院号
慈願院
| 広済寺 | |
|---|---|
| 所在地 | 埼玉県川越市喜多町5-1 |
| 位置 | 北緯35度55分37秒 東経139度28分57秒 / 北緯35.9269765度 東経139.4824013度座標: 北緯35度55分37秒 東経139度28分57秒 / 北緯35.9269765度 東経139.4824013度 |
| 山号 | 青鷹山 |
| 院号 | 慈願院 |
| 宗旨 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 釈迦如来坐像[1] |
| 創建年 | 1548年 |
| 開山 | 広庵芸長 |
| 中興 | 本田親氏 |
| 正式名 | 青鷹山慈願院廣濟寺 |
天文17年(1548年)8月20日、河越城主であった大道寺政繁によって建立された[4]。開山は広庵芸長。その後、江戸時代になって本田右近親氏によって再興されたという[5]。
1651年に起きた慶安の変では、対応に当たった松平信綱が川越藩主でもあったことから、連座した者の一部が広済寺境内で切腹させられた[6]。
本堂は享保14年(1729年)の火災で焼失し[7]、その後默元によって再建された。默元は本堂の軒が高すぎて、大風などによる修繕が必要になったときに不都合があると考え、自ら柱を切って軒を下げたため、他の寺に比べて軒が2尺(約60センチメートル)低くなったという。[4]。
明治維新とともに学制が発布されたことを受け、1873年(明治6年)に禅堂を利用して北学校が設置され、当時の喜多町と高沢町の児童を受け入れた[8]。1976年(明治9年)の記録では男子95名、女子92名が在籍していた[9]。また1879年(明治12年)4月1日には、寺の一部が入間郡・高麗郡の郡役所庁舎となった[10]。