広瀬久兵衛
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豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の三男として生まれる。兄淡窓に代わって21歳で家政をまかされ、西国郡代や諸藩の用達を勤める。文化14年(1817年)日田代官として着任した塩谷大四郎(しおのやだいしろう)の小ヶ瀬井路開削を中核となって支えた。その後、現在の宇佐市と豊後高田市の天領地域の干拓・新田造成事業を手掛けた。その中には自費で新田造成したものもある。天保3年(1832年)に掛屋を命じられる。人物、手腕、財力、地位、業績が九州内に知れ渡り、天保6年(1835年)塩谷大四郎が江戸に召還されたのちは、各藩が彼を迎え入れようとした。天保13年(1842年)より府内藩の財政改革に取り組み尽力した。また吉兆原(きっちょうばる)・庄ノ原(しょうのはる)を開拓し、元治水井路を開削した。幕府から一代帯刀・永世苗字を許可された。