康君立
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辺境の豪族の家に生まれた。乾符年間、雲州牙校となり、大同軍防禦使の段文楚に仕えた。段文楚が軍人の給与を削減すると、君立は薛鉄山・程懐信・蓋寓・李存璋らと図って李克用を雲州に迎え、大同軍防禦留後に推挙した。まもなく李克用の父の李国昌は振武軍を失い、李克用は雲州を失陥した。唐の朝廷が招討使の李鈞や盧龍軍節度使の李可挙に命じて蔚州の李克用を攻撃すると、君立は李克用に従って、たびたび李可挙を撃破した。李国昌がモンゴル高原に入ると、君立は威義軍を保持した。李克用が雁門節度使に任じられると、君立はその下で左都押牙をつとめた。李克用に従って関中に入り、黄巣の反乱軍を駆逐し、長安を奪回した。李克用が太原府に駐屯すると、君立は検校工部尚書・先鋒軍使をつとめた[2]。
文徳元年(888年)、李罕之が河陽を失陥して李克用に救援を求めてくると、君立は南面行営招討使となり、2万の兵を率いて、李罕之を助けて河陽を攻め取った。3月、宣武軍節度使の朱全忠の将の丁会・牛存節と沇河で戦った。騎将の安休休が寝返ったため、君立は退却した。8月、汾州刺史に任じられた。大順元年(890年)、潞州の小校の安居受が叛くと、君立は李克用の命を受けてこれを鎮圧し、検校尚書左僕射・昭義軍節度使となった。李克用の軍が連年邢州や洺州の地を攻略して、孟方立を攻撃すると、君立は潞州の軍を率いてこれを挟撃した[3]。
景福元年(892年)、君立は検校司徒となった。景福2年(893年)、李存孝が邢州に拠って叛くと、君立は李克用の命を受けてこれを討ち、功績により検校太保を加えられた。乾寧元年(894年)、李存孝が捕らえられると、君立は軍を返した。李存孝が死去すると、李克用は李存孝を哀惜してやまず、恨みを解かない諸将に怒りを抱いた。君立は李存孝を陥れた李存信と仲が良かった。9月、君立が太原府に到着すると、李克用は諸将を集めて酒宴を開いたが、話が李存孝のことに及ぶと、涙が止まらなかった。君立は李克用の意に逆らう発言をして、毒殺された。享年は48。後唐の明宗が即位すると、太傅の位を追贈された[4]。