薛志勤
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はじめ振武軍節度使の李国昌の下で帳中親兵となった。乾符3年(876年)、康君立とともに李克用を雲州に迎え、功績により右都押牙に任じられた。広明元年(880年)、李国昌に従ってモンゴル高原に入った。中和元年(881年)、李克用が雁門節度使に任じられると、志勤は代北軍使を領知した。中和3年(883年)、李克用に従って関中に入り、黄巣の反乱軍を撃破し、長安を奪回した。功績により検校工部尚書・先鋒軍使となった。中和4年(884年)、李克用に従って陳州・許州を救援し、黄巣の乱を平定した[1]。
李克用が汴州の上源駅で酒宴を開いていたところを宣武軍節度使の朱全忠の将の楊彦洪に包囲襲撃された。志勤はひとり駅楼に登って大呼し、矢を放って汴州の兵数十人を斃した。血路を開いて李克用を脱出させた。このため李克用は帰営でき、志勤への恩顧は厚くなった[1]。
大順元年(890年)、張濬が唐の官軍を率いて太原府に来攻した。10月、志勤は李承嗣とともに騎兵3000を率いてこれに抵抗し、韓建の軍を蒙坑で破り、進軍して晋州・絳州を奪取した。功績により忻州刺史に任じられた。大順2年(891年)、李克用に従って成徳軍節度使の王鎔を討ち、天長鎮・臨城県を攻略するにあたって、志勤はいずれも軍の先頭に立って敵陣を落とした。王暉が雲州に拠って叛くと、志勤は王暉を討ち平らげ、検校司空・雲州刺史・大同軍防禦使となった。乾寧元年(894年)、康君立に代わって昭義軍節度使となった。光化元年12月(899年1月)、潞州で病没した。享年は62[2]。