弓削王 From Wikipedia, the free encyclopedia 続柄 山背大兄王第三王子出生 不詳死去 皇極天皇2年11月17日(644年1月5日)子女 猿丸太夫弓削王続柄 山背大兄王第三王子出生 不詳死去 皇極天皇2年11月17日(644年1月5日)子女 猿丸太夫父親 山背大兄王母親 舂米女王テンプレートを表示 弓削王(ゆげのおおきみ、? - 皇極天皇2年11月17日(644年1月5日))は、飛鳥時代の皇族。山背大兄王の第三王子とされる。 『上宮聖徳法王帝説』によると、厩戸皇子(聖徳太子)の子である山背大兄王と、その異母妹の舂米女王の第三王子とされる。 皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)に、大臣の蘇我入鹿の命を受けた巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳ら約100名の兵に、斑鳩宮にいた父・山背大兄王と共に襲撃される。『聖徳太子伝補闕記』によれば、癸卯年11月11日(643年12月30日)丙戌亥時に太子子孫を宗我大臣并林臣入鹿が殺し、その6日後の辛卯辰時に大狛法師[注釈 1]が斑鳩寺にいた弓削王を殺したという。 これにより上宮王家は滅亡した[注釈 2]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 狛大法師、大化の改新の大化元年(645年)8月8日に孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により十師に選ばれたうちの1人 ↑ ただし、上宮王家がこの時に全員死亡したとする説には疑問を持つ見方もある。例えば、『聖徳太子伝補闕記』において山背大兄王とともに自殺したとされる片岳女王(片岡女王)について、東野治之は『法隆寺資財帳』に見える金泥銅灌頂幡を寄進した「片岡御祖命」と同一人物とし、女王が一族の滅亡後も生き延びて法隆寺の再建に立ち会った可能性があるとしている[1]。 出典 ↑ 東野治之校注『上宮聖徳法王帝説』(岩波書店岩波文庫、2013年)P22 Related Articles