弘津千代

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弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年[1]は、日本の劇作家小説家

1929年6月28日、『女人藝術』誕生祭が小石川植物園で開かれた。
前列:八木秋子英美子北川千代林芙美子長谷川時雨生田花世、戸川静子、堺真柄ら。
後列:島本久恵上田文子、熱田優子、神近市子今井邦子板垣直子、大村嘉代子、弘津千代ら。

山口県熊毛郡伊保庄村(現、山口県柳井市伊保庄)上八(こうじょう)生まれ。広島女学校附属小学校、広島県師範学校附属小学校、広島県立広島高等女学校を経て、日本女子大学校文科国文学科を1922年卒業[2]。 在学中より中村吉蔵らに師事。卒業後も東京で劇作に専念した。 本名はチヨ。

1921年、日本女子大学校在学中に卒論のかわりに、印度阿育王の伝説を題材にした戯曲・華子城物語(かしじょう・ものがたり)を、同級生の山原鶴、宮田範と共作[3]、翌1922年6月、新光社より出版される。

代表作は、1925年(大正14年)7月号の「舞台批評」に発表した「天樹院」。同作は、同年9月には「吉田御殿」と改題して、小山内薫の演出によって帝国劇場で上演された[4]。出演は守田勘弥森律子、河村菊江など[5]。日本戯曲全集36現代篇第四輯に所収された。 この作品について演劇評論家の戸板康二は、著書「演芸画報・人物誌」(青蛙房刊)のなかで、「好色な女性の乱行という伝説に、新解釈を下したこの作品は、女形よりも、初演の森律子、河村菊江によって演じられるのに、ふさわしかったかも知れない」[3]と評している。

第二次大戦中は伊保庄上八の生家に疎開し、戦後は近辺の新制中学校の教師として数年間教壇に立ち、和服の先生として有名であったが、その後再び上京し、日本ユネスコ委員会の委嘱で「籤」ほか1篇の戯曲を発表した。1968年に京都に移り、余生を送っていたが、1983年夏死去[6]。 生涯に約30編の戯曲と10数編の小説のほか評論随筆などを執筆した。 1997年、出生地の郷土史家らによって生家跡に石碑が建てられた[7]

著作

脚注

関連項目

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