弥生時代開始年代論
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従来の年代観
1960年代以前は、弥生時代中期後半・後期前半・後期後半を各100年として[注釈 1]、それを中期前半以前にも当てはめる繰上げ按分法で弥生時代開始期を紀元前3-2世紀ごろに考える杉原荘介による説などがあった[8]。1960年代から弥生時代研究に放射性炭素年代測定法が導入されるようになり、岡崎敬による宇木汲田遺跡の分析では縄文時代晩期の夜臼式が紀元前5-4世紀、弥生時代前期の板付Ⅰ式が紀元前4-3世紀と示された[9]。また橋口達也は杉原の方法を洗練させ、甕棺の副葬品の中国における実年代から甕棺の1型式を約30年と推定し、舶載品が副葬されない時代にこれを当てはめ、前期初頭を紀元前300年前後とする仮説を発表している[10]。
その後、板付遺跡で発見された夜臼単純期の水田を画期として弥生時代早期を設定することが提起された[11][注釈 2]。すなわち岡崎が縄文時代晩期とした夜臼式の紀元前5-4世紀が弥生時代開始期の年代として考えられるようになる。
歴博年代
春成秀爾ら国立歴史民俗博物館(歴博)の研究チームはAMS(加速器質量分析)を用いた高精度の放射性炭素年代測定法を用い、土器付着炭化物と杭を試料にして弥生時代開始期の年代測定を実施した[2]。その結果、弥生時代早期の夜臼Ⅱ式で紀元前900年を上限とする値が出たことから、弥生時代開始期は紀元前10世紀半ばごろにあたる可能性が示唆された[13]。これは上述した従来の年代観を約500年も遡るものであった[2]。
この発表を受けて、考古学者は支持派と懐疑派に分かれ論争を生じさせた[14]。この論争はマスコミにも取り上げられ、そこではしばしば支持派を「科学的」、懐疑派を「頑迷固陋」「非科学的」と単純に二極化するきらいがあった[15]。研究者の側でも歴博年代を「信用する/信用しない」といった、宗教・政治的であって科学的ではない用語が飛び交っていた[15]。
再び宇木汲田
宮本一夫は、かつて岡崎によって弥生時代開始期の根拠として用いられた宇木汲田遺跡の炭化米を改めて検討し、弥生時代開始期を紀元前9-8世紀とする結果が得られた[3]。歴博年代との矛盾は後述する古木効果、あるいは土器編年の認定に問題があると考えられた[3]。宮本の研究により、同じAMS法を用いた歴博の「前10世紀後半説」と宮本の「前800年説」を比較して議論することが可能となった[16]。
教科書記述の更新
2010年代後半以降、年代は紀元前8世紀ごろに絞り込まれてきたと評価されており[4][5]、2023年から用いられている高校日本史の教科書でも弥生時代の開始は紀元前8世紀と記述されている[17][18]。
論点
他の研究法との関連
鉄器
日本列島の弥生時代早期から前期には曲り田遺跡出土の鋳造鉄斧(中国戦国時代中期=紀元前4世紀前半ごろ)の再加工品をはじめとして複数点の鉄製品や鉄器による加工痕が確認されている[19][20]。そこで弥生時代早期の年代を紀元前10世紀とする場合、この日本列島と大陸における鉄器普及時期の齟齬が解消される必要があるとされた[19]。これらの鉄器資料は春成秀爾によって出土状況などの再検証が行われ、その結果いずれの鉄器も確実に早期から前期のものといえないと判明したことでこの問題は解消した[21]。
青銅器
今川遺跡出土の銅鑿は遼寧式銅剣の再加工品で、前期前半の層から出土したが、今川遺跡の遼寧式銅剣の年代を考えると前期前半を紀元前800年に遡上させるのは困難であるとされた[22][23]。しかしその後の大貫静夫、宮本一夫らの研究により、傾斜編年を排除することで朝鮮半島の遼寧式銅剣開始期である無文土器時代前期後葉は紀元前10世紀後半まで遡らせることが可能であることが把握され、続く無文土器時代後期初頭(弥生時代開始期と同時期)が紀元前9世紀ごろに該当すると考えられた[24]。
土器編年
宮地総一郎によれば、歴博が分析に使用した土器には夜臼Ⅱa式とされたが実際にはその前段階である山ノ寺・夜臼Ⅰ式に属するもの、夜臼Ⅱb式・板付Ⅰ式とされたが実際には夜臼Ⅱa式に属するものという誤認ケースが多く含まれていた[25]。すなわち、「歴博側は本来古い形式の土器について新しく解釈したものが多くある」ことが判明した[26]。歴博[17][27]、宮本[3]ともに土器編年の確立・検証がこの論争における重要な論点であると認識している。
気候変動
甲元眞之は砂丘形成の年代を検証し、弥生時代開始期ごろに存在したとされる「弥生寒冷期」という事象を紀元前8世紀末に比定した[28]。甲元の議論に対し、砂丘形成期の理解によって少し古くなる可能性が指摘されている[4]。また「弥生寒冷期」にあたる太陽活動の停滞期が紀元前900年からの約20年間にもあったという反論もあるが、この反論に対しては根拠とするデータが明確でないとの批判がある[4]。
気候変動に関連して2020年前後から酸素同位体比年輪年代法を用いた検証も試みられているが、弥生時代前期以降のデータが蓄積している一方で弥生時代開始期のデータは資料不足の問題で十分に得られていない[29]。
方法論
暦年較正
炭素14の生成と崩壊は一定ではなく、実際には宇宙線の強度の変動によって炭素14の生成ペースは常に変動しているためこれを較正する必要がある[30]。しかし較正の結果、2400年問題のように暦年が変化しても炭素14年代の値がほとんど変化しない時期が存在することも知られている[30]。さらに炭素14の濃度に地域差があることが報告されており、日本もIntCalから乖離する可能性がある点にも注意された[31]。これについては研究が進み、2023年現在では日本産樹木による較正年代を用いることができるようになっている[32]。
海洋リザーバー効果
炭素14の生成は大気中でのみ行われるのに対し、崩壊が主に海水中で起こることが影響して、海由来の炭素は測定結果がより古く出てしまう[33]。深海においては炭素14の崩壊速度が遅いため、そこで生活する生物やそれ(海産物)を食糧としたヒトなどにまで古い年代値が現れるという[34]。
これに対し、藤尾慎一郎はδ13Cの値を参照することで海洋リザーバー効果の影響を受けている試料を除外する手法を示した[35]。
古木効果
歴博年代の発表直後、土器付着炭化物の放射性炭素年代は他の資料より古い年代値が出るという指摘がされた[36]。この報告で「私達が知りえていない(未解明の)カラクリ」[37]とされたものこそ、古木効果と考えられる。歴博が試料として選択した土器付着炭化物はいわゆるススのことで、燃料に木を用いていた可能性を考慮すると、年輪を重ねるほど木の内部には代謝を終え古い炭素を蓄積した部分が増えていき炭素年代の値も古くなるのである[38]。
古木効果の問題を解決するために、宮本一夫は一年生草本であるコメ(宇木汲田遺跡出土の炭化米)を試料に用いて分析を行った[39]。一方で、土器編年の問題(前述)を考慮すれば、歴博の年代値と宮本の年代値自体には矛盾がない[3][27]との指摘もある。
影響
従来、稲作の受容(弥生時代の開始)から首長墓の出現、西日本全域への稲作の普及までがかなりのスピードで進行したと考えられていた[40]。しかし弥生時代の開始が遡り、従来のイメージよりゆるやかに定着していく過程であったことが判明したことで、過大評価されていた水田稲作の拡大力、生産力を再考するきっかけになった[41]。
弥生文化救済論
貧しい縄文文化に救世主としての農耕文化が渡来したという見方では、農耕文化が九州以東になかなか伝播しなかったことが説明しきれなくなった[40]。そこでピエール・クラストルの『国家に抗する社会』、ジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』、デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』といった文化人類学の理論に注目し、従来の弥生時代(あるいは考古学)研究の背景にある社会進化論を批判的に再検討する議論が起こっている[42]。
汎列島弥生文化
東日本はおろか西日本においてさえも、農耕の伝播は従来想定されていたよりかなりスローペースであることが判明し、日本列島を一括りに考える「弥生文化」への疑問が投げかけられることとなった[40]。藤尾慎一郎はこれまで「中の文化」[43]と一括されてきたおよそ東北中部から九州中部にわたる文化をいくつか(一例として紀元前3-2世紀には4つ)の文化的まとまりに分けることを提唱し[44]、森岡秀人は一つの「弥生文化」ではなく多数の小文化圏を複合的に包含した「弥生コンプレックス」という概念を提唱している[45]。