日本に留学し、1912年(民国元年/大正元年)から京都帝国大学法科大学に入り、1915年 (民国4年/大正4年)に卒業した[3]。1917年(民国6年)3月、直隷地方検察庁検察官として起用され、以後、奉天高等審判庁推事署理、修訂法律館纂修、司法官再試典試委員、大理院推事署理、総検察庁検察官と歴任している[4]。これらの他、張家口地方法院院長、国立北京大学法学院教授、私立中央大学教授、国民政府司法行政部法官訓練所専任教授を歴任した[1]。
王克敏が中華民国臨時政府を創立すると、張乗運もこれに直ちに参加した。1938年(民国27年)1月1日、司法委員会(委員長:董康)委員に任命された[5]。3月11日、最高法院検察署検察官を兼任している[6]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。臨時政府最高法院は中華民国最高法院華北分院に改組され、張乗運はこの時に事実上重任していたと考えられる。なお人事としては、同年9月5日に最高法院華北分院検察署検察官代理となり[7]、翌1941年(民国30年)1月23日にようやく正式任命された[8]。
その後における張乗運の動向は不詳である。