張可復
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張達の子として生まれた。儒学にほぼ通じ、若くして官吏の事務を習った。後梁のとき、魏州に遊歴し、魏博節度使の羅紹威の推薦により安陽県主簿となった[1]。
後唐の天成元年(926年)、霍彦威を頼って青州に赴き、その下で平盧節度従事となった。霍彦威は可復が滑稽なしぐさで面倒ごとを回避するのを好んだことから、「奸兎児」と呼んだ。長興年間、可復は洛陽に入朝して、監察御史となった。六度異動し、兵部郎中に進んだ[1]。
後晋の天福年間、可復は西都留守判官から入朝して秘書少監に任じられ、左司郎中に転じた。開運年間、左諫議大夫となった[1]。
後漢の乾祐元年(948年)、劉贇が武寧軍節度使となると、可復は選抜されて武寧軍節度副使・検校礼部尚書に任じられた[1]。
後周の広順元年(951年)、柴栄が澶州節度使となると、可復は澶州節度行軍司馬に転じた。広順3年(953年)、開封府に召還されて給事中となった。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、可復は右散騎常侍に任じられた。この年の秋、病没した。享年は73。戸部尚書の位を追贈された[1]。