張善相
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隋の大業年間の末年、里長を務めていた。常に県の兵を督率して小規模な盗賊を追捕し、民衆の信望を集めた。これにより本郡を占拠し、李密に帰順した。李密が敗れると、城を挙げて唐に降り、高祖李淵から伊州総管に任命された。王世充はたびたび攻め寄せたが、張善相は相次いで使者を派遣して救援を要請した。しかし援軍はついに到着せず、城中の食糧も底を尽きた。自らの敗北は避けられないと悟った張善相は、僚属に言った。「我が死後、わが首を斬って王世充に差し出せ」。僚属たちは皆涙を流して言った。「殿と共に死なんと願い、ついに独り生くまじ」。後に城は陥落し、張善相は捕らえられて王世充の許へ送られたが、その表情と口調には少しもひるんだ様子がなく、王世充を激しく罵倒し、まもなく害された。高祖は嘆息して言った。「朕は善相に背いたが、善相は朕に背かなかった」。そこでその子を襄城郡公に封じた[2]。