張就
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経歴
父は、元々敦煌郡の功曹史で、当時の敦煌郡では、近隣の酒泉郡に黄華、張掖郡に張進という人物が割拠していた。 敦煌郡の太守である馬艾が亡くなった頃、父は張就を朝廷の実権を握る曹操の下に派遣し、太守の派遣を要請した。張就は帰還時、酒泉郡で黄華に抑留され従うよう脅迫を受けたが、張就は屈服することはなく、密かに父と連絡を取っていた。そして父は、従弟に軍を率いさせ、黄華を攻撃させ、自身も兵を率いて黄華、張進の目を欺いた。さらに、精鋭の騎兵を送り正式な太守である尹奉を迎えることに成功した。黄華が後に金城郡の太守の蘇則に降伏すると、張就は無事敦煌に帰還する事が出来た。その後、張就は223年頃、新たに金城太守となり、名声を高めたという。後の太和(曹叡期)の時代、父が亡くなった。青龍四年、涼州の胡阿畢師という人物が反乱を起こしたが、張就に鎮圧され、一万人が斬首または捕虜となった[1]。子の張斅は西晋の時代、広漢太守・匈奴中郎将となった。
一族
張就以前
- 張恭 父。
- 張華 父の従弟。西晋の張華とは別人。
子孫
- 張斅(生没年不詳、字は祖文、ちょうがく)、前述。
- 張固(生没年不詳、字は元安)、西晋の黄門郎となったが、早くに亡くなった。