建安年間、酒泉郡の豪族であった黄氏は太守の徐揖に誅され、その仇討ちを黄昂がなし、その黄昂は楊豊に討たれた。当時、黄華は東方にいたが、帰還すると郡を掌握し、楊豊は西の敦煌郡に逃れた[3]。
建安末、武威郡の顏俊、張掖郡の和鸞、酒泉郡の黃華、西平郡の麹演らはそれぞれ郡で挙兵し、おのおの将軍を自称して相互に攻撃しあっていた。曹操は張既に相談すると「相打ちを待つべし」と静観を進言した。すると和鸞が顏俊を殺し、武威の王秘が復讐するなど互いに攻撃しあった[4]。
延康元年(220年)5月、(当時は涼州が置かれず三輔から西域まですべて雍州に属していたが)、魏王・曹丕は安定太守の鄒岐を涼州刺史に任じた。しかし、麹演は反乱を起こして鄒岐を拒絶し、張掖の張進は太守・杜通を捕らえ、黄華は太守・辛機を拒絶し、各々太守を自称するなど呼応した。また武威の三種の異民族も反乱した[5]。
武威太守・毌丘興は蘇則に救援を求めると、即応した蘇則は武威を救援し、異民族も降し、共に西方に進軍して張掖郡に迫った。
この当時、敦煌太守代行の張恭は息子・張就を朝廷に派遣したが、通り道の酒泉で黄華に捕縛された。黄華は敦煌の軍勢を得るため張就を白刃で脅したが、彼は屈しなかった。また、張恭は従弟をやって酒泉の沙頭・乾斉の二県を攻めさせ、後続を送って互いに援護させ、鉄騎200を酒泉の北側を通らせて太守の尹奉を出迎えた。こうした対応で、黄華は東の張掖への救援を出せず、蘇則に張進や麹演が敗れると、恐れて投降した[6]。
嘉平3年(251年)には兗州刺史であった。春、王凌は将軍の楊弘を黄華のもとに派遣し、曹芳廃立の謀議を告げたが、楊弘と黄華はこれを太傅・司馬懿に通報した。王凌らが粛清されると楊弘、黄華らは郷侯に封じられた。
嘉平5年(253年)2月、後将軍・兗州刺史に在官中のまま死去した[1]。