張丕の孫にあたる。節度使や州の列校を歴任し、内職から諸衛将軍を歴任した。後周の広順元年(951年)、華州節度行軍司馬から郢州刺史や懐州刺史を歴任し、安州防禦使に転じた。張穎は性急厳格で情け容赦がなく、人の小さな罪も許すことができなかったことから、身近な人々にも恨まれた。部将の曹澄に娘があり、張穎が妾に迎えたいと迫った。顕徳2年12月7日(956年1月22日)、曹澄は数人の仲間とともに張穎の寝室に押し入って殺害し、南唐に亡命した。世宗柴栄が南唐に遠征すると、曹澄らを捕らえて張穎の子の張永徳にその身柄を与えた。張永徳は曹澄らを殺した。
張永徳は後周の駙馬都尉(太祖郭威の娘の寿安公主の夫)や北宋の彰徳軍節度使となった。