張錫元
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事績
山海関武備学堂卒業後、定武軍の教習に就任する。1911年(宣統3年)、河南新軍第29混成協(協統:応竜翔)第58標標統に就任した。同年10月の武昌起義当時、歩兵1個営を率いて湖北省に向かう。後日、更に歩兵1個営騎兵2個隊・砲兵1個隊(中隊)を河北省滄県劉家廟に派遣、鎮圧に向かう[1][2]。応竜翔は革命派と内通していたため河南巡撫の宝棻に拘束され[1]、後任として第29混成協協統に昇進する。
1912年(民国元年)、混成協は混成旅に改組され、張錫元はそのまま同旅長をつとめる。10月11日、少将[3]。また12月30日、陸軍中将昇進とともに河南陸軍第1師師長に昇進した[4]。1914年(民国3年)9月14日、第9師に改編され、引き続き師長を務める[5]。1915年(民国4年)7月29日、北京への異動を命じられ[6]、1916年(民国5年)、京畿歩兵第2旅旅長に転任した。
翌1917年(民国6年)8月30日、第2旅は第4混成旅に改編され引き続き旅長[7][8]。1918年(民国7年)、胡景翼率いる陝西靖国軍を討伐した。1921年(民国10年)9月13日、陝西省で潼関鎮守使を兼任する[9]。1922年(民国11年)5月29日、察哈爾督統に就任した[10]。同年9月4日、錫威將軍[11]。1923年(民国12年)11月14日、陸軍上将晋授[12]。1924年(民国13年)9月26日、察区防務総司令[13]。12月、国民軍が察哈爾に進軍してくると、圧力を受けて病気を理由として辞任した[14]。
以後、張錫元の行方は不明である。