張鵬 (五代)
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幼くして僧となった。書を知り、弁舌が達者で、大言壮語を好んだ。のちに還俗した。後唐の潞王李従珂のもとに赴いて頼った。清泰元年(934年)、末帝(李従珂)が即位すると、張鵬は供奉官として任用され、軍隊を監督した[1]。
後晋の開運年間、契丹が澶州に迫ると、張鵬は前鋒兵馬監押となり、奮戦して契丹を攻撃し、負傷して帰った。その後も辺境の城守を歴任し、部隊はかれの武勇に服従した[1]。
後漢の乾祐元年(948年)、張鵬は成徳軍節度副使に任じられた。大名府に立ち寄って高行周に面会すると、張鵬は後晋の滅亡に言及し、後晋の少帝が人の任用を誤り、節度使が蓄財につとめるのみで、国家に意を用いず、社稷を滅ぼすにいたったのは、ひとり帝王の咎ではないと述べた。高行周は張鵬の発言を問題にしなかったが、張鵬が退出すると、側近たちが張鵬の発言は高行周をそしるものだと伝えた。高行周は怒って、張鵬に国を恨む誤った発言があったと上奏した。7月、張鵬は朝廷の命により鎮州で殺害された[1]。