後藤達三
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開成所・大学校・文部省
天保12年(1841年)5月22日江戸に生まれ、幕臣として英学・漢学を修めた[2]。
明治元年(1868年)9月20日鎮将府附となり、12月開成学校教授試補、明治2年(1869年)7月少助教、1870年(明治3年)7月大学校少助教を歴任した[2]。1871年(明治4年)7月19日大学校が廃止されると、文部中助教として翻訳に従事し、8月少助教となった[2]。9月一旦辞職した後、10月文部省十等出仕として編輯業務に従事し、1872年(明治5年)9月辞職した[2]。
内務省
明治5年(1872年)10月正院十等出仕となった[2]。1874年(明治7年)11月内務省十等出仕に転じ、勧業寮工商務課に勤務した[2]。1875年(明治8年)2月農務課、10月第三課に転じ、『斯氏農業問答』を編纂した[2]。同年創立された開農義会に参加し、機関誌『開農雑報』に活発に投稿した[3]。
1876年(明治9年)3月総州牧羊場に出張し[2]、4月全国から生徒を集め、舟木真と共に生徒監督としてアメリカ人技師アップジョーンズの通訳・助手を務めた[4]。1877年(明治10年)1月勧業寮が廃止され、内務五等属として勧農局事務取扱を命じられ、2月牧羊場長補心得となった[2]。1879年(明治12年)4月牧羊生徒の卒業に当たり[4]、牧羊場長岩山敬義・種畜場長奥青輔等と東洋農会を組織して録事となり[2]、1880年(明治13年)1月『東洋農会四季報告』を創刊した[4]。
1879年(明治12年)9月奥青輔の出張に伴い牧羊場長補心得となった[2]。12月内務三等属となり、取香種畜場長心得を兼任した[2]。1880年(明治13年)1月獣医科総括を命じられ、5月陸産課に兼勤し、7月東京に出張した[2]。1881年(明治14年)3月東洋農会と東京談農会が合併して大日本農会となり、創立委員に当選した[2]。
農商務省
1881年(明治14年)4月勧農局の廃止により農商務三等属となり、農務局に属して下総種畜場に勤務した[2]。5月牧畜掛を兼務し、8月二等属となった[2]。9月大日本農会農芸委員となり、獣医科・牧畜科を担当した[2]。10月東京に出張し、11月文部省御用掛を兼務し、専門学務局に勤務した[2]。1882年(明治15年)1月農務局報告課に転じ、一等属となり、9月下総種畜場に兼勤した[2]。
1883年(明治16年)5月石川県に出張した[2]。7月報告課に戻り、農書編纂掛を兼務し、前田貫一著『農業簿記教授書』を校閲した[2]。1884年(明治17年)7月農書編纂掛兼農務局事務取扱となり、9月畜産諮詢会事務取扱を命じられた[2]。1885年(明治18年)6月種畜場は宮内省に移管された[5]。
1886年(明治19年)1月文部省御用掛を解かれ、農務局編纂課に勤務した[2]。3月課長となり、判任官一等に進んだ[2]。1887年(明治20年)4月大日本農会第18回農産品評会で食用家禽の品評委員を務めた[2]。1889年(明治22年)3月非職となった[2]。
1889年(明治22年)11月花房義質等と日本園芸会を設立し、評議員に当選した[2]。1890年(明治23年)5月広沢安任・与倉東隆・玉利喜造等と日本畜産協会を創立し、10月幹事・会計委員となった[2]。1891年(明治24年)12月中旬病気に罹り、1892年(明治25年)1月1日死去し、4日青山共葬墓地に葬られた[2]。子は2男があり、次男竹次郎が家を継いだ[2]。