忍足佐内
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安房国勝山藩領では、明和7年(1770年)に旱魃に見舞われ、特に平郡金尾谷村[注釈 2]・白坂村[注釈 3]・深名村[注釈 4]・小原村[注釈 5]の4か村の被害は甚大であった[4]。4カ村の代表は、勝山(現在の安房郡鋸南町勝山)の陣屋に年貢の減免を嘆願した[4]。
嘆願を受けたのは、国許の仕置を任されていた陣屋奉行[4]の稲葉重左衛門、および代官の藤田嘉内であった。稲葉は深名村のみ減免を認めたが、これは私的理由によるものとされる[4]。願いを拒否された3村の代表(金尾谷村の代表が忍足佐内であった)は江戸の勝山藩邸に赴いて門訴し[4]、藩主酒井忠鄰に村人が困っていることや、奉行の悪政を訴えようとした。
門訴の目標は達成できず[4][1]、彼らは処分保留のまま[1]帰村を余儀なくされた[4][1]。稲葉は彼らを恨み、帰村した佐内を捕らえて[4]勝山の大黒山中腹の岩牢に幽閉。明和8年(1771年)に稲葉は藩主の指示を無視し、独断で佐内を白塚川原(現在の福沢川白塚橋付近[5])で処刑してしまった。享年44。これらの事件を忍足佐内事件、あるいは勝山藩西領騒動ともいう。
