志多羅神上洛事件
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志多羅神は志多良神、設楽神とも書かれ、当時の新興の神であった[7][8]。主に西国の民間で勢威があったとされる[9]。天慶8年7月に入京した際には、道中で村から村へと移座しており(神送り)、疫神とも考えられている[10]。
事件の経過は、『本朝世紀』が記録した摂津国国司や石清水八幡宮からの解文によって知ることができる[7]。同記によれば、天慶8年7月、既に京では東西の国から神々が入京するという風評が流れていた[11]。その神々は「志多良神」、「小藺笠神」、「八面神」などと噂された[11]。7月28日には、摂津国国司からの報告があった[12]。国司の報告によれば7月25日、「志多良神」と号した神輿三基が摂津国河辺郡方面から数百人に担がれ豊島郡に入った。群衆は鼓を撃ちつつ歌舞を行いながら行列をなしていたという[11]。同郡に到着後、「道俗男女貴賤老少」の人々はさらに集まり、朝から翌明け方まで歌舞を続け[11]、島下郡へ出発した[13]。捧げられた供えの雑物などは数え切れないほどあったという[13]。
さらに神輿は六基に増え、8月1日には山崎郷を経て石清水八幡宮に移った[13]。これは、神に憑かれた女子が「吾は早く石清水宮に参らん」と託宣を述べたためであり、託宣を受け周辺の郷から上下貴賤を問わず人々が集まり移座を行った[13]。石清水八幡宮からの報告によると、神輿のひとつは「宇佐宮八幡大菩薩御社」と号し、神輿を囲む人々の数は「数千万人」にも及んだとされる[13]。群衆は幣帛を捧げ、歌舞を行い神輿の前後を囲んでいた[13]。このように大勢の人々が参加した騒動であるが、八幡宮移座後の運動の動静については明らかではない[7]。なお、『宮寺縁事抄』という鎌倉時代の史料によれば、志多羅神は石清水八幡宮の末社になったという[14]。
事件の性格
志多羅神
喜田貞吉は、神名について梵語での経文が修多羅(すたら)と呼ばれたことから転じたのではないかと推測している[19]。また、喜田は伊勢内宮年中行事にある志多良撃ち(手を叩いて謳歌したという)や手を叩いて遊ぶ抃遊(したらあそび)との関係を指摘した。柴田實も神名は群衆が手を叩き歌舞したことにちなんで名付けられたと指摘した[7]。こうした「したら(しだら)」と関係した芸能や農耕儀礼は天慶8年以前から諸国にみられ、そのうち九州で地方神と合わさったものが志多羅神になったと考えられている[20]。
そのほか小藺笠神、八面神といった神名も歌舞との関連を示し、このような名前(藺笠は平安時代の農民が作業中に被っていた笠、八面は八面九口長舌を表し八岐大蛇や八大龍王を指すと考えられる)は、農業や干天や降雨につながる自然神との関係も指摘されている[7][21]。文江自在天神は菅原道真と習合する以前の雷神(火雷神)を指すと考えられる。これら上洛した神々の中心は、神輿のひとつにあった宇佐八幡大菩薩と考えられ、志多羅神による託宣の折にも八幡神(弥畑神)が名乗られたとされる[22]。志多羅神の上洛には、複数の神名が登場しており、童謡でも農耕に関係する語が多いことから(「月は笠(暈)着る、八幡種まく」など)、志多羅神自体は特定の神を指した名称というよりは、群衆と共に上洛した神々の総称ではないかと考えられている[23]。