意宇川流域には山代二子塚や大庭鶏塚など古墳が多く、出雲東部の豪族がこの流域を支配していたとみられる[1]。
松前健によれば、アメノホヒを祖とし、意宇川上流で熊野大神を奉斎するこの東部勢力が、大和朝廷の仲介あるいは後援の下、出雲西部に進出して、オオナムチを奉斎する西部豪族からその祭祀権を奪い、出雲一円の祭政を担ったとみられ、これこそが記紀に伝承される国譲り神話の史実の中核をなすものという。出雲大社の最高司祭(出雲国造家)が後世まで意宇に居宅し、意宇の大庭に代々の墓所を有していたことに加え、彼ら本来の奉斎神が意宇の熊野神社であったことも事実であると述べている。